関東1部で再出発、岩政大樹が目指す道 「選手は“仮の姿”だと思っていた」

元川悦子

関東1部リーグの東京ユナイテッドへの移籍を決断した岩政。その経緯や今後について話を聞いた 【スポーツナビ】

 大学卒業後、10シーズンを過ごした鹿島アントラーズで2007〜09年のリーグ3連覇の原動力となり、14年にタイ・プレミアリーグのBECテロ・サーサナへ移籍した岩政大樹。カップ戦タイトルを手土産に、15年にはファジアーノ岡山に加入し、キャプテンとしてJ1昇格に挑んできた。

 2年目の昨シーズン、岡山は6位でJ1プレーオフに初参戦し、3位の松本山雅を準決勝で撃破。ファイナルまで上り詰めたが、決勝のセレッソ大阪戦では力の差を見せつけられ、0−1で苦杯をなめた。本人も負けを認めざるを得ない試合。「自分の2年間の挑戦が終わった」とキッパリ言い、岩政は次なる身の振り方を模索していた。

 新天地に選んだのは、文京区に本拠を置く関東1部リーグの東京ユナイテッドFCだった。東京大学運動会ア式蹴球部OBクラブ「東大LB」と慶応義塾大学体育会ソッカー部OBクラブ「慶應BRB」の出身者が中心となり、「LB−BRB TOKYO」という名称で15年から活動を開始。東京都1部から足掛け3年で関東1部まで上がってきたチームだ。「20年にJリーグ入り」を目指しているが、プロ契約選手は岩政1人という生粋のアマチュア集団である。

 かつて日の丸を背負った35歳のDFが、Jリーグに名を連ねていない5部のクラブに加入するのは、ニュースと言っていい。思い切った決断をした彼に、移籍の経緯や今後の方向性を聞いた(取材日:2017年1月31日)。

今後の準備をしつつ、サッカーも続けられる環境を選んだ

「『人生を懸けます』と言っておきながら、結果が出なくても契約更新できる選手ではない」と、岩政は岡山退団に至るまでの経緯を語った 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

――東京ユナイテッド入りまでの流れを簡単に教えていただけますか?

 岡山に2年契約で入る時、長澤(徹)監督と池上(三六)前GMが僕を信頼し、多くの役割と責任を与えてくれました。それだけ大きなものを1選手に与えてくれる状況は通常ではあり得ないこと。期待の大きさを僕は強く感じながら、J1昇格のためにプレーしてきました。その目標を果たせなかった以上、責任を取らなければいけなかった。自分は「人生を懸けます」と言っておきながら、結果が出なくてもアッサリ契約更新できる選手ではない。潔く岡山を離れる決断をしました。

(昨年12月に)退団を発表してから年末までは、家族旅行に行ったりしながら情報を集めていました。ただ、僕は何かに区切りをつけてから次を探すのは好きじゃないタイプ。引退する場合、しない場合を想定しながら、10月ごろから情報収集活動はスタートさせていました。

 そんな中で思い当たったのは、指導者になるにしても、クラブのフロントに入るにしても、今は何の準備もできていないということ。JFA(日本サッカー協会)のC級ライセンスを持っていてもお金をもらって指導できるノウハウはないし、解説者や講演会を本業にするだけのスキルも自信もない。だからこそ、ここから多くのことに挑戦して今後の準備をしつつ、サッカーも続けられる環境がベストじゃないかと考えました。その意向に賛同してくれるクラブに絞り、最終的に2つの中から東京ユナイテッドを選んだんです。

――東京ユナイテッドに心惹かれた部分は?

 日本のサッカーを冷静に見ると、都心のクラブと呼べるクラブがないという実情があります。日本のサッカーを文化にしていこうと思うなら、既存クラブとは違う色合いを持つクラブが必要だと思います。今まで自分は鹿島、岡山と地方クラブで長くプレーしてきたので、その経験やノウハウが通用しないという点も面白さを感じました。今はまだ小さなクラブなので、ここからどうにでも絵を描ける。大きな可能性が広がっている部分も興味深く感じましたね。

――クラブとの接点はいつから?

 代表(共同代表理事)で監督の福田雅さんと3年前に知り合い、いろんな話をしていました。岡山を退団してフリーになった時点でも熱心に誘っていただきました。自分が決断するにあたって重きを置いたのは、そこに自分がやる意味があるかどうかでした。

 2020年にJリーグという目標はハッキリしている。3年間でカテゴリーを2つ上げる筋道を作るのが自分の仕事だと明確に理解できました。そのためには、現場のチームカラー作りに力を入れないといけない。それはチームメートにも言ったこと。鹿島だったら「勝利第一」という確固たる哲学がある。それを作ったのはジーコだと言われているけれど、当時いた日本人スタッフが土台を築き、長い時間かけて継続してきたから今がある。J発足当初に鹿島がやったような作業を、今の僕らもやる必要がある。タイでも似たような仕事をしましたけれど、「組織の基準作り」が求められていると感じ、やりがいを覚えました。

 自分は選手兼コーチという形で携わりながら、それ以外の時間は別の活動にトライできるメリットもありました。サッカー選手は時間的余裕のある仕事で、岡山時代はチームメート数人と料理教室に通ったこともありました(笑)。自分は講演活動や少年指導など多くのことを手掛けたかったけれど、コンディションを考えてセーブしなければなりませんでした。そういう意味では、何かを始めようとしてもブレーキがかかる状態でした。

 でも、東京ユナイテッドではみんなが仕事と掛け持ちでサッカーをしているので、それが当たり前です。空いた時間にコーチングの勉強もできますし、英語学習、執筆活動にも力を入れられる。2月からは解説も少しずつやっていくことになりました。そうやって経験の幅を持たせ、5年後の40代になった時、自分の進むべき方向を決められたらいいと思っています。今はまだどこを目指すか分かりませんが、「サッカー界に貢献できる人間になる」ということだけは変わらないと思いますね。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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