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偉大なキャリアを持つ中田浩二が現役引退
若手へ継承する黄金世代17年間の財産

葛藤の末プロキャリアにピリオド

今季限りで現役を引退する中田。鹿島や日本代表で多くのタイトルを獲得してきたユーティリティープレーヤーの足跡を振り返る
今季限りで現役を引退する中田。鹿島や日本代表で多くのタイトルを獲得してきたユーティリティープレーヤーの足跡を振り返る【写真は共同】

「正直、この決断をするまでにさまざまな葛藤がありました。チームに貢献できないもどかしさもあったし、チャンスがあればまだやれるという自信もあり、悩み、迷いました。でも、最終的にアントラーズ以外のユニホームを着てプレーしている姿が想像できなくて、引退を決断しました。


 (小笠原)満男、モト(本山雅志)、ソガ(曽ヶ端準)。この3人は本当に素晴らしい友であり、ライバルだった。彼ら3人がいたから今まで頑張れたし、このような経験ができた。一番最初に引退するのはちょっとしゃくだけれど、今まで本当にありがとう」


 12月6日のカシマスタジアム。サガン鳥栖に0−1で敗れ、最終的に3位で2014年のJ1リーグ戦を終えた名門・鹿島アントラーズから、1人の名選手が去ることになった。1998年から今季まで17年間プロキャリアを歩んできた中田浩二だ。彼が引退セレモニーでこうあいさつする間、小笠原はうつむいたまま顔を上げることができず、胴上げにも加わらずにじっと涙をこらえていた。ともにプロになり、99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝を経験し、02年日韓ワールドカップ(W杯)、06年ドイツW杯に出場し、鹿島でも10を超えるタイトルを獲得してきた戦友がピッチを去ることに、何とも言えない複雑な感情を抱いたからだ。


「浩二が安心して(チームを)任せられるっていう試合を見せて、良い最後にしてあげたかったけれど、情けない試合をしてしまった。今日だって、あいつが出てたら厳しいことを言ってくれたし、何をすればうまくいくか、勝てるかを考えてやってくれたと思う。こんな試合の後に一番大事な選手を失わなきゃいけないのが本当に残念です」と小笠原は声を絞り出すように語っていた。それだけ中田の引退というのは、鹿島にとって、日本サッカー界にとって大きな衝撃に他ならなかった。

ユーティリティープレーヤーの先駆者

02年の日韓W杯では“フラット3”の一角として、初の決勝トーナメント進出に貢献
02年の日韓W杯では“フラット3”の一角として、初の決勝トーナメント進出に貢献【写真:ロイター/アフロ】

 帝京高校時代から左利きの大型ボランチとして名を馳せていた彼が、その名を大きく知らしめる契機となったのが、98年1月8日の高校サッカー選手権決勝だった。本山擁する東福岡との雪の決勝(2−1で東福岡の勝利)は、多くのサッカーファンの脳裏に深く刻まれている。そんな中田も、98年の鹿島入り当初はプロの壁にぶつかった。1年目はリーグ戦5試合出場、2年目が同17試合出場となかなか定位置を確保しきれなかったのだ。当時の鹿島には本田泰人や熊谷浩二ら好選手が中盤に多く、同期の小笠原や本山らもいたため、彼は熾烈(しれつ)な競争を余儀なくされた。00年に看板選手の1人になるまで、多少なりとも下積み生活を送ることになった。


 ルーキー時代の重要な転機となったのが、U−20日本代表でのフィリップ・トルシエ監督との出会いである。フランス人指揮官は中田の高さと左足の精度の高いキック力を買ってフラット3の左DFにコンバート。インテリジェンスと適応力の高い彼はそのコンセプトを瞬く間に把握し、ワールドユースで見事に実践。世界2位という快挙に大きく貢献する。小野伸二、高原直泰、稲本潤一らとともに黄金世代の軸を担った中田は、今では当たり前になったユーティリティープレーヤーの先駆者だったとも言えるだろう。


 ナイジェリアでの働きが高く評価され、00年シドニー五輪、02年日韓W杯と一気に階段を駆け上がっていく。12年1月の松田直樹の追悼試合でトルシエが久しぶりに来日した際も「森岡(隆三)、中田、宮本(恒靖)、直樹がいなければフラット3はできなかった」と断言したように絶対的信頼を勝ち取った。「フィリップは僕の人生を変えてくれた」と本人も深く感謝していたが、そういう指導者と出会えたことは幸運だった。鹿島での00年の3冠達成、00、01年のリーグ連覇などを含め、20代前半の中田は勢いに乗っていた。


 ジーコジャパン時代も順当に代表入りしたが、03年8月には大分トリニータ戦で左ひざ靱帯(じんたい)断裂の重傷を負い、1年近く戦線離脱する。それでも辛く苦しいリハビリを乗り越え、04年5月には復帰を果たし、04年アジアカップ(中国)に出場。準決勝・バーレーン戦と決勝・中国戦の連続ゴールでアジア連覇にも尽力する。


「ヤット(遠藤保仁)が退場して0−1で負けている中、(中村)俊輔のCKをヘディングで合わせたバーレーン戦の1点は一番印象的なゴール。自分にとっての代表初ゴールだったしね」と本人も引退会見でしみじみ語っていたが、これも輝かしい戦績の1つに違いない。

元川悦子
元川悦子

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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