現役引退後に聞く、加地亮の矜持 20年間気配りを続けた黄金世代の右SB
今だからこそ明かす代表引退への思い
数々のタイトルを手にしたG大阪時代は、「支え合うチーム」を作れた実感を感じていた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
「代表は海外遠征が多くて時差や不眠に悩まされる。体がフワフワした状態でプレーしなければいけないことも多くて、心身共に苦しかった。代表選手はどんな時も100パーセントの状態でプレーしなければいけない責任がある。それを果たせないならクラブ1本でやっていくべき。そういう気持ちが強まったんです。
ウッチー(内田篤人)が台頭してきたことも決断を後押ししました。攻撃も守備もしっかりできて、周りを見て仲間のよさを引き出せる柔軟性を備える彼は新たなSB像の象徴。非凡な才能に圧倒されました。こういう選手がいれば今後の日本代表は大丈夫。そんな思いも頭をよぎりました」
国際Aマッチ64試合2得点という偉大な代表キャリアに区切りをつけ、06年から所属するガンバ大阪での仕事に集中した結果、08年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)制覇、07年のナビスコ、08・09年の天皇杯と数々のタイトルを手にすることができた。G大阪時代は、W杯ドイツ大会の日本代表でかなわなかった「支え合うチーム」を作れた実感を持てているようだ。
「勝てるチームには気配りできる選手が何人もいる。当時のガンバには『気配りナンバーワン』の明神(智和)さんを筆頭に、バンやハシ(橋本英郎)、二川(孝広)、山崎雅人、武井択也、ルーカスなど、チームのために身を粉にでき、自ら喜んでハードワークできる選手がたくさんいた。それは本当に大きいことだなと痛感します」と加地は話したが、これは99年ワールドユース準優勝時のU−20日本代表に通じる部分でもあった。
突出した技術・戦術眼を備えたタレント力はもちろん必要だが、彼らの足りない部分を補って、それぞれが個性を生かし合うようなチームでなければ勝利はつかめない。加地亮は長いプロキャリアを通して「強固な組織」がどんなものかを身をもって体感し、それを築き上げるべく、自ら意欲的に取り組んだ男だった。
「本当にやる気があればどんな努力もできる」
J2だからと諦めずに、「本当にやる気があればどんな努力もできる」と加地は語る 【元川悦子】
「岡山には篠原(弘次郎)のようなものすごい向上心を持った若手もいた。体のケアやトレーニング方法のことを僕にもよく聞いてきましたからね。そういう選手がもっと増えてほしいとも感じました。自分が20歳で大分へ行った時は、本当に貪欲に上を目指していた。『J2は給料が安いから個人トレーナーはつけられない』と諦めてしまったら、そこで成長が止まってしまう。本当にやる気があればどんな努力もできるはず。高いレベルへ行けるかどうかは結局、人間性なんだと思います。多くの指導者や仲間からそれを教えてもらえたから、僕はこの年齢まで現役を続けられた。本当に感謝しかないです」
加地が発する言葉の1つ1つには20年間のプロ生活で得た経験値が凝縮されている。それを今後の日本サッカー界にダイレクトに生かしてほしいところだが、本人は指導者になる考えはないという。それでも単発のサッカースクール、Jリーグ新人研修などの場で折を見て自らの考えを伝えていくつもりだ。もちろん今後の本業となるカフェ経営にも真摯(しんし)に取り組んでいく。何事に対しても常に全力というのが、彼の矜持(きょうじ)なのだから。
「当面の目標はアスリートの体型を維持すること(笑)。引退後も朝5時に起きて10キロ走る生活を続けています」というストイックな生きざまは、ピッチを去った後も決して変わることはないだろう。