現役引退後に聞く、加地亮の矜持 20年間気配りを続けた黄金世代の右SB

元川悦子

今だからこそ明かす代表引退への思い

数々のタイトルを手にしたG大阪時代は、「支え合うチーム」を作れた実感を感じていた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 挫折を糧にイビチャ・オシム監督就任後の代表にも名を連ね、ジーコ時代の反省を踏まえてより献身的にチームを支えようとした。けれども、オシム監督が倒れ、岡田武史監督が後を引き継いだ直後の08年春に突然、代表引退を発表する。当時は「08年アジアカップ(中国)で左SBに起用された戸惑いが決断の引き金になった」と言われていたが、本人はこの見方を否定。「代表とクラブの掛け持ちの難しさ」が最大の理由だったことを明かす。

「代表は海外遠征が多くて時差や不眠に悩まされる。体がフワフワした状態でプレーしなければいけないことも多くて、心身共に苦しかった。代表選手はどんな時も100パーセントの状態でプレーしなければいけない責任がある。それを果たせないならクラブ1本でやっていくべき。そういう気持ちが強まったんです。

 ウッチー(内田篤人)が台頭してきたことも決断を後押ししました。攻撃も守備もしっかりできて、周りを見て仲間のよさを引き出せる柔軟性を備える彼は新たなSB像の象徴。非凡な才能に圧倒されました。こういう選手がいれば今後の日本代表は大丈夫。そんな思いも頭をよぎりました」

 国際Aマッチ64試合2得点という偉大な代表キャリアに区切りをつけ、06年から所属するガンバ大阪での仕事に集中した結果、08年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)制覇、07年のナビスコ、08・09年の天皇杯と数々のタイトルを手にすることができた。G大阪時代は、W杯ドイツ大会の日本代表でかなわなかった「支え合うチーム」を作れた実感を持てているようだ。

「勝てるチームには気配りできる選手が何人もいる。当時のガンバには『気配りナンバーワン』の明神(智和)さんを筆頭に、バンやハシ(橋本英郎)、二川(孝広)、山崎雅人、武井択也、ルーカスなど、チームのために身を粉にでき、自ら喜んでハードワークできる選手がたくさんいた。それは本当に大きいことだなと痛感します」と加地は話したが、これは99年ワールドユース準優勝時のU−20日本代表に通じる部分でもあった。

 突出した技術・戦術眼を備えたタレント力はもちろん必要だが、彼らの足りない部分を補って、それぞれが個性を生かし合うようなチームでなければ勝利はつかめない。加地亮は長いプロキャリアを通して「強固な組織」がどんなものかを身をもって体感し、それを築き上げるべく、自ら意欲的に取り組んだ男だった。

「本当にやる気があればどんな努力もできる」

J2だからと諦めずに、「本当にやる気があればどんな努力もできる」と加地は語る 【元川悦子】

 30代半ばに差し掛かった14年夏には英語圏でのプレーを希望し、米国・メジャーリーグサッカーのチーバスUSAへ移籍。念願の海外挑戦に胸を弾ませた。ところが、わずか3カ月後にクラブが解散。ドラフトでも指名がかからず、15年にJ2の岡山へ赴くことになった。メンタル的に難しい部分もあったというが、FC東京時代のコーチで加地の特徴をよく理解していた長澤徹監督らの後押しを受けて新天地で再起。16年には、2つ年下の岩政大樹らとともにJ1昇格プレーオフ決勝に勝ち上がるところまでチームを引き上げた。

「岡山には篠原(弘次郎)のようなものすごい向上心を持った若手もいた。体のケアやトレーニング方法のことを僕にもよく聞いてきましたからね。そういう選手がもっと増えてほしいとも感じました。自分が20歳で大分へ行った時は、本当に貪欲に上を目指していた。『J2は給料が安いから個人トレーナーはつけられない』と諦めてしまったら、そこで成長が止まってしまう。本当にやる気があればどんな努力もできるはず。高いレベルへ行けるかどうかは結局、人間性なんだと思います。多くの指導者や仲間からそれを教えてもらえたから、僕はこの年齢まで現役を続けられた。本当に感謝しかないです」

 加地が発する言葉の1つ1つには20年間のプロ生活で得た経験値が凝縮されている。それを今後の日本サッカー界にダイレクトに生かしてほしいところだが、本人は指導者になる考えはないという。それでも単発のサッカースクール、Jリーグ新人研修などの場で折を見て自らの考えを伝えていくつもりだ。もちろん今後の本業となるカフェ経営にも真摯(しんし)に取り組んでいく。何事に対しても常に全力というのが、彼の矜持(きょうじ)なのだから。

「当面の目標はアスリートの体型を維持すること(笑)。引退後も朝5時に起きて10キロ走る生活を続けています」というストイックな生きざまは、ピッチを去った後も決して変わることはないだろう。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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