中日・森野を主力に導いた地獄の日々 「みんなキャンプを話題にするけど…」

週刊ベースボールONLINE

9月24日の引退試合でサヨナラ打を放った藤井をおんぶして祝福する森野(背番号7) 【写真:BBM】

 森野将彦は主軸に座る打力を持ちながら、守備では複数ポジションをこなす器用さを見せた。変幻自在の攻守は中日黄金時代に欠かすことはできない異色のプレーヤーだった。21年間の現役生活を終え、来季からは指導者として、新生ドラゴンズの基盤をつくる。

引退試合は新鮮なものに

 チームでの存在感を証明するような光景だった。引退試合は2点のビハインドを追いつき、9回に劇的なサヨナラ勝利。仲間からのプレゼントに、満開の笑顔を咲かせた。

──引退から約2カ月が経ちましたが、現役を退いたことを実感することはありますか。

 特に……ないかな(笑)。コーチの仕事が忙しくて選手時代を思い出しているヒマがないというか。12月、1月になってからでしょうね。来季に向けてのトレーニングをやっていたころになって、「この時期に何もしないって珍しいな」と思うんでしょうね。

──引退を決められたのはいつごろだったのでしょうか。

 早かったですよ。7月2日の広島戦(マツダスタジアム)でケガをして(初回に安打で出塁し、後続の安打で生還する際に右太もも裏を肉離れ)、8月の頭くらいには自分の中で「引き際だな」と考えていました。ファームで実戦復帰したのですが同じ箇所を痛めてしまい、もう一度リハビリをして、1軍復帰を目指してやるという気力がなくなりましたし、来季にいい状態に持っていけるかというと、それも難しかったので。

──引退試合は9月24日の広島戦(ナゴヤドーム)。そのときも万全ではなかった。

 怖かったですよ、正直。リハビリの途中で、そろそろ復帰できるかな、というところではあったんですけど、それでも自分の中では万全ではありませんでした。メニューとしてはトレーニングコーチに組んでもらったものをしっかりこなして強化はしていたんですけど、気持ち的にどこかで、「リハビリが何の意味もなさないんだ」という意識もありました。心と体のバランスが悪かったですね。意地でも早く治して1軍に復帰するぞ、という気持ちだったらもっと早く復帰できていたと思うんですけど、心が空っぽの状態で体だけ治している感じでしたね。

──今季、1軍では3番や5番に座ることも多く、来季を期待していたファンもいたとは思いますが、もしケガがなければ、現役続行していた可能性は。

 うーん。どうでしょうか。正直なところ、春先から自分のバッティングではないと感じていたんですよね。1軍でちょこちょこ打つようになり始めて、しかも、これから、というところでケガをしてしまったので。自分の中での目標として、ある程度出場して、3割近く打てれば続けようとは思っていたのですが、それをできなかった時点で、もう決断しました。

──最後の打席は0対2の7回無死一塁で、代打での登場でした。

 率直に、感動などはなく「これが最後か」というだけでしたね。だけど、普通だったら、相手投手やチームのこと、野球のことを考えながら打席に入っていたところが、状況はまったく関係なく、歓声を聞いたり、球場の景色を見たりできました。その点でこれまでとはまったく違う打席でしたね。「いつもこういう中でプレーしていたのか。これだけの人が見ていてくれて、これだけの人が応援してくれていたのか」と。

──結果的にはファーストゴロでした。

 ええ。まあ、やめるにふさわしいひどいバッティングをしていましたよね。いくら最後の打席といっても、ピッチャーが投げた瞬間には勝負の目になっているわけですから。そういうところでは客観的に自分のバッティングを見て、「ああ、ひどかったな。これはもうできないな」と野球人として感じました。あらためて踏ん切りがつきましたね。

──走者として残り、代走に送られた荒木雅博選手と言葉を交わす場面もありました。

「すみませんね。最後に代走してもらって」と(笑)。事前に「塁に出たら代走に行くわ」とは言ってもらっていたので。

──試合は8回に同点に追いつき、9回に藤井淳志選手がサヨナラ二塁打を放って、3対2で劇的な勝利を収めました。森野さんもドリンクの入ったタンクを自ら運び、藤井選手に頭からかぶせて祝福しましたね。

 花を飾ってくれてうれしかったですね。印象にも残りますし。これまでサヨナラの場面で、小さいペットボトルなどをかけたことはありますけど、あのような大きいタンクを1人で持っていってかけるというのは初めての機会でした。最初はそのままグラウンドに向かいかけましたが、「これはタンクを持っていかないとダメだな」と思いベンチに引き返しました。いろいろ初めてのことが体験できて、新鮮な試合になりました。

行く場所行く場所で厳しい練習

05年からサードのレギュラーをつかんだ一方、バッテリー以外のポジションをすべて守った年もあった 【写真:BBM】

 初安打が初本塁打となる華々しいデビューも、レギュラーをつかむまでには10年間を要した。そのターニングポイントとなった2005年。泥と汗にまみれた日々を振り返る。

──1997年にドラフト2位で中日に入団し、1年目に初本塁打を放ちました。高卒ルーキーとしては順調なデビューと言えたのではないでしょうか。

 周りからそう言ってもらえることは多かったですけど、僕はそうは思っていなかったですね。どういう世界なのかも分からず、自分が何かをつかんだわけではなく、漠然とただ打ちたいと思い、たまたま打てたというだけだったので。だからこそ2年目、3年目は一度も1軍に上がれず、しっかり下積みをしたところはありました。

──1年目にホームランを打ったことで、2年目、3年目に焦りはありましたか。

 2年目はあまりなかったですけど、3年目に一度も1軍に呼ばれなかったときに「これはまずい」と感じ、何かを変えないといけないという思いがありました。そのころは自分が一番下っ端だということは分かっていました。1軍に一度も呼ばれないということは、チームでの順位は一番下。3年目の終わりくらいに初めて、この人よりも一つ上、一つ上と順位を上げていかないといけない。そうしないと来年に首を切られるのは自分だ、と思うようになりました。

──そのために磨いた部分は。

 打撃はある程度自信があったので、野球に対する考え方ですね。ただのほほんと野球をやるのではなく、もっと野球を勉強して、一つひとつの動きを考えながらプレーする。ファームで結果を残さないと1軍には上がれませんし、そのころはファームも明確にレギュラーが固まっていたので、まずはそこを目指しました。

──4年目から徐々に試合出場を増やしていき、落合博満監督2年目の05年に118試合に出場し、主力となりました。そしてその年の秋季キャンプでは、もはや伝説となっている地獄のノックで鍛え上げられました。

 みんなキャンプを話題にするんですけど、05年のシーズン中から本当にきつかったんです。試合前練習が半端ではなく、休養日だったものが練習日になり、という変化があった年でした。

──特に苦しかった練習は。

 たくさんあり過ぎて分からないんですが……。05年だったらアメリカンノックですね。ドラゴンズがホームだったら、だいたい14時30分から練習が始まり、10分くらい打撃練習をして40分に終わったとすると、16時まで1時間20分使えるじゃないですか。その間ずっとアメリカンノックですよ。しかも休憩なし。レフトに行き、ライトに走り、その繰り返しで40往復くらいしたんじゃないでしょうか。そんなのはざらでしたね。いまだに覚えています。地方球場の福山で、真夏の熱い時期にそれをやって……。ほかにも尾道では、反対にバッティング練習の順番を最後にされて、現在もトレーニングコーチの勝崎(耕世)さんが付きっきりで、アップからずっとフェンス際を走らされたり……。行く場所行く場所で、厳しい練習の思い出がありますね(苦笑)。

──それだけ、当時の落合監督が期待するものがあったということではないでしょうか。

 それは落合さんにしか見えていなかったので僕は分からないですけど。でも、それがあったから05年の秋のキャンプをこなすことができ、06年からのレギュラーにもつながったのかと思っています。

──猛練習が実を結んだということですか。

 練習が実を結ぶというよりも、僕がいまだに思うのは、自分自身でどこまでできるか、というところじゃないでしょうか。やらされる練習なんですけど、「きつい。もうダメだ」と簡単に口にしたらその練習は終わるんですよ。秋季キャンプのノックにしても、僕がグラブを離した瞬間にそれで終わりというルールだったんです。きつかったらグラブを取れ、と。

──自分からグラブを離したことは……。

 一回もないです。最高に負けず嫌いな気持ちと、言い方は悪いですけど、監督に「この野郎」という気持ちもありました。こっちはいくらでもやってやると。ノック中にはわざと、水の近くに打球を打たれて「休めばいいじゃないか」と言われたんですけど、絶対に飲まなかったですね。水を飲んでしまうと気持ちが切れて動けなくなってしまうんですよ。そういうところでまた一つ、変化がありました。

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