“情熱の指揮官”森山佳郎のチーム作り U-17代表に求めた戦闘能力、たくましさ

川端暁彦

選手には本当の意味での「戦闘能力」を求めてきた

森山監督が求めたのは本当の意味での「戦闘能力」。選手たちの意識を少しずつ変えていった 【写真:アフロ】

――「個を育てる」という意味では、森山監督は「サッカーIQ」という言葉をよく使います。その意味を教えていただけますか?

 要するに、「今はどんな状況なのか」をしっかり理解した中でサッカーができるかということです。ドリブラーがいたとして、その選手は自分の対峙(たいじ)する相手しか見えていないのか、それともどこが空いているのか、味方の動きがどうなのかを把握して動けているかどうか。

 自分たちがどういう状況で、相手がどういう状況で、試合の状況はどうなっているのかという情報をしっかり処理して判断した上で、その上で技術を発揮できることを求めてきました。本当の意味での「戦闘能力」ですよね。戦術理解と戦術的な判断と、それを実行するスキル。全部を総合したところです。

――最初は「まず奪いにいく」という姿勢を強調されていました。

 行かなかったですからね(笑)。判断以前の問題で、まずボールを奪いにいくという姿勢自体がなかった。ボールを奪える可能性を常に見据えながら、狙いを付けて“いく”ところ。これは日本サッカー自体の課題でもあると思いますが、球際も含めて本当にそのベースが最初はなかったので、その基準を上げることに注力しました。

 ただ、強い相手とやれば、奪いにいってやられる経験もすることになる。そうしたときに、「いかない」という判断も出てくる。試合の流れを読みながら、瞬間の状況を察知しての決断ができる選手を求めてきたし、それができる選手が増えてきたという実感もあります。

――この流れは当初からの構想ですか。

 いえ、本当はもっといろいろやっていこうと思っていたのですが、最初の候補合宿を経てから行ったインドネシア遠征(15年4月)の初めての対外試合で、いきなり打ち砕かれました(1−2でU−15インドネシア代表に敗戦)。グラウンドの状態が悪く、相手がガンガン奪いに来る中でもきれいなサッカーをしようとしている選手たちがいて、ボコボコとやられてしまった。

 この敗戦を受けて「もう頭の中を変えることから始めないとダメだ」と根本から考えを変えました。ですので、最初の年は「集まったら、最初の練習は絶対に対人(練習)」という感じで、対人守備について彼らが常識的に持っている基準を変えることからのスタートでした。

――そうやって守備側が変わると、攻撃も変わりますよね。実際にこのチームも変わってきたと思います。

 何度か招集している選手は「あ、これが当たり前なんだ」と変わっていってくれて、チームに帰っても継続してやってくれたりしました。それで審判に「国際試合ならこれくらいの当たりは普通でしょう!」と文句を言ったなんて話も伝わってきました(笑)。

 審判との協調というのも僕らはやってきました。どうしても「ボールを奪いにいかないほうがいい」となってしまう。もちろん審判の笛も含めて「判断」ですけれどね。

――育成年代の審判は総じてコンタクトプレーに厳しい一方で、手を使ったファウルに対しては寛容です。あれも国際試合ではあり得ないですよね。

 ヘディングをする前に競る相手を後ろから手で押すプレーなど、国際試合では100パーセントファウルを取られます。新しく呼ばれたDFがジャッジに戸惑って、FKやPKを取られて失点するなんてこともよくあります。そのあたりも含めて、審判委員会と協調しようということで、ずっと取り組んでいます。

「国際試合での経験不足」をなくすために

「国際試合での経験不足」をなくすために、インドで多くの経験を積むことが目標だ 【写真:川端暁彦】

――いよいよ、6日からU−17W杯が開幕します。

 リオ(デジャネイロ)五輪でグループステージ敗退に終わったとき、敗因の1つとして「国際大会での経験不足」が挙げられていました。そうならないようにするのが僕らの年代の仕事だと思いますし、そのためにも1つでも多くの試合を経験させられればと思っています。この大会の経験が、将来彼らが「国際試合? 普通でしょ」と言える、たくましい選手になっていく1つのステップになればと思っています。

――インドという日本とは異なる環境での戦いでもあります。

 中2日で移動しながら戦うという日程は厳しいものですし、体調を崩す選手も出るかもしれない。総力戦になるはずです。その上で、メンタル的にもフィジカル的にもたくましさを出しながら、日本の技術的なところ、緻密に戦えるところを出していければと思います。隙を見せることなく、一戦一戦を戦っていければと思っています。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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