2000年 ネットメディア勃興期<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
ネット全盛時代を予言していた広瀬一郎
本間はメディアのパラダイムシフトを「いち早く予言していたのが広瀬一郎だった」と語る 【宇都宮徹壱】
「実は、私がいたリクルートという会社は、90年代の初めくらいのころからインターネットというメディアに注目していて、そのころから『いずれ紙メディアはなくなるかもしれない』という予測も立てていたんです。でも、そういう時代がこれほど早く訪れるとは思わなかったですよ。リクルート自体、あんなにあった雑誌がどんどんネットに置き換えられて、今ではみんなスマートフォンでそれを見ていますからね」
インターネット、そしてスマートフォンの普及により、気が付けば既存メディアとネットメディアの立場はものの見事に逆転した。もちろん取材現場では、今でも最も強い影響力を持っているのは新聞社である。しかし彼らもまた、自分たちの書いた記事をネット上にアップしなければ、なかなか読者に届かないのが実情だ。そうしたメディアのパラダイムシフトを「いち早く予言していたのが広瀬一郎だった」と語るのは本間である。
「あの人はITの設定もできない人だったけれど、実はネットメディアがこうなることをかなり予言していたんですよ。あるいは、チケット販売はネットが主流になるとか、試合の動画が気軽に見られるようになるとか。もちろん、外したものもたくさんありますよ。ネットバブルはもう少し続くはずだった、とかね(笑)。でも、今起こっていることのほとんどは、00年にスポーツナビを立ち上げた時からあったのではないかと思っています」
その場にいたひとりとして、最後に付け加えておきたいことがある。前編の冒頭で私は広瀬について「夢に敗れ続けてきた人」と評した。誤解を恐れずに言えば、彼は偉大なる「しくじり先生」であった。だが広瀬が繰り返してきた失敗が、新たなフォロワーやムーブメントを生み出してきたのも事実である。もし単独でのW杯日本招致に成功していたら、おそらく彼は日本サッカー協会でそれなりの地位を築き、スポーツ・ナビゲーションを立ち上げることはなかっただろう。あるいはスポーツナビの経営に成功していたら、スポーツとITの第一人者に祭り上げられて、後進を育てる余裕などなかったかもしれない。広瀬が「成功者」となっていたら、日本のスポーツ界は今とはかなり違ったものになっていた可能性が高い。
本稿は当初、広瀬一郎本人に話を聞くことを想定して準備を進めていた。あらためて故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
<この稿、了。文中敬称略>