戸田和幸の描く理想の指導者像<後編> 現役時代の苦い記憶、解説で学んだこと

中田徹

監督にはコンセプトが必要

戸田和幸さんが監督業に生かしたい選手時代の経験、解説者として学んだこととは? 【中田徹】

 現役時代の戸田和幸さんは主にDFやセントラルMFといったポジションを務めていた。監督のコンセプトがないと、プレーしづらいポジションだったはず。そこで当時の監督のことを語ってもらった。

「(オズワルド・)アルディレス監督には『ボールを失うな』というコンセプトがありました。そこで選手は何をすればいいかというと、徹底的にうまくなるように練習しようとなるでしょう。

 アルディレスさんをコーチとして補佐し、清水の監督になった(スティーブ・)ペリマンは、基本的にはアルディレスさんと同じだったけれど、もう少しチームとして守備も――というコンセプトがありました。ペリマン監督は人格者でした。選手としての輝かしい背景もあった方ですが、選手のことをすごくリスペクトしていた。そして真っ直ぐだから、間違っていることは間違っていると言い、良いプレーをした時にはめちゃくちゃ褒めた。『DFにはアウトサイドのバスはいらない、インサイドでピチッと出せ』など、基本を大切にするタイプでした。僕もディテールをしっかり大事にしてプレーしたいタイプだから、とても響きました。練習には楽しさがあり、真剣さと競争もあった。すごく良い監督で、尊敬できる人でした」

 2002年のワールドカップ日韓大会で日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督は、戸田さんのストロングポイントである激しい守備とボール運びを引き出した。

「トルシエ監督の場合は、まず守備のコンセプトがありました。僕の場合、自分の周りに誰がいるかということで仕事を考えました。ヒデさん(中田英寿)がいて稲本(潤一)がいたから、自分は『つぶす』と。トルシエ監督から『こういう仕事をしてくれ』と言われた経験はありません」

 トルシエ監督から「狂犬になれ」と言われたというエピソードがあったはずだ。

「『狂犬になれ』とは本当に言われました。だけど、僕が狂犬になるためには、他の選手もある程度“犬っぽい”ことをしないといけなかったという話です。そういう状況をチームが作ってくれたから、僕はとりわけ狂った人間になってガッと(ボールを奪いに)いけたんです。それがなかったら、僕は中盤のど真ん中で動いたらやられちゃうし、何もできなかったはずです。そういう意味でチームとしてコンセプトがあり、それが非常にクリアだったので、僕は思い切った仕事ができました」

監督とコーチは持ちつ持たれつ

 清水ではアルディレス監督とペリマンコーチ、広島ではミハイロ・ペトロヴィッチ監督とランコ・ポポヴィッチコーチの元でプレーした。戸田さんは「やっぱり監督とコーチは持ちつ持たれつなんだ」ということを感じていた。

「清水ではアルディレスさんの『サッカーを楽しもう』『アイデアを大事にしよう』などをベースに、ペリマンさんの『基本を大事にしよう』というのがありました。広島のペトロヴィッチさんとポポヴィッチさんも同じような関係でした。この2人が一緒に仕事をしていた時は、広島も良かったですね」
 
 やがて、ポポヴィッチコーチは広島を離れ、ズラティボール・ヴォーダ(セルビア)の監督になった。右腕役を失ったペトロヴィッチ監督は、チームの主将だった戸田さんを呼んで相談したが、そのうち、2人のボタンはかけ違っていった……。

「所属したクラブに対しては、一点の曇りもなく『勝って評価されたい』という思いで努力しました。監督が困っていれば『助けなきゃ』と思うし、その役割を求められれば一生懸命にやる。コーチがいなくなって、監督も不安そうだったし、自分がそこのポカッと空いてしまったところに入らないとチームが回らなくなりそうでした。監督と選手をつないだり、フロントの人との間に入ったり一生懸命やったつもりなんです。僕は主体的に動く人間なんですけれど、『監督を助ける』=『チームが勝つ』『それが自分の評価につながる』という気持ちで動いたら、どうやらかけ違いが起こってしまいました」

戸田さんは07年に広島でJ2降格を経験した 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 戸田さんは「ペトロヴィッチさんとは今もスタジアムで会って話をします」と何度も念押しした。ただ、事実は、ペトロヴィッチ監督は戸田さんを試合に起用しなくなったということ、チームが2部に落ちたということだ。

「僕は監督のことが好きでしたし、今は仲が良いんです。あの時、自分は28歳ぐらい。一連の出来事があってから『俺がいなきゃよかったんじゃないか』と思ったこともあります。『俺がいるから、余計な競争意識がチームの中にできてしまったり、練習の時から一個一個のプレーに対して執着するから、それがチームの緊張感を生みすぎちゃったのかな』とか。『あのチームにとっては笑顔でサッカーを楽しむという雰囲気が必要だったのか』とか……。

 今、思うのは、監督のマネジメントの難しさ。そして、チームというものを成り立たせるのは、やっぱり監督1人ではできないということです。 自分がいろいろ頑張ったから気付いたこともあります。相当、疲弊しましたけれど……。でも、自分で疲弊していったわけだから、自分も悪かった。自分の体験を材料に、どういうふうにチームや選手をまとめていくか考えていきます」

一番の武器はサッカーを追及するのが好きなこと

04年にオランダのADOデンハーグでプレー。現役引退後も「まだサッカーは続いている」と語る 【写真は共同】

 ふと、ADOデンハーグでプレーしていた時の、戸田さんの「こんなクソみたいなチームで出られない俺は、本当にクソなんですね」というコメントを思い出した。彼は覚えていたらしく、「おお!」と言って笑った。もうひとつ、「練習ワイワイ、試合ガヤガヤ、俺は許さない」というのもあったが、これは覚えていなかった。

「それだけ自分がハッキリあるというのは、逆の言い方をするとハマらないチームが出てきますよね。だって俺は許さないんでしょう!? だからひょっとしたら(現役時代は不必要な)苦労をしちゃったのかもしれません。そうしながらサッカーに生きてきた人間として、今度、指導者になった時には学びながら生かさないといけない。僕には、まだサッカーが全く終わっていない。まだ続いています。ありがたいことに、生まれてから右肩上がりでサッカーが好きになっています(笑)」

 ADOデンハーグ時代の戸田さんは「俺はサッカーが大好きで、朝ご飯の時も、サッカーの試合の映像を見ているか、子供の写真を見ています」と言っていた。

「ありがたいですよね。好きという気持ちだけは、自分で持とうと思っても持てませんからね。これもひとつの才能です。僕は残念ながらボールを扱うとか、身体的な部分の才能はなかったかもしれませんが『あ、これが残っていたな』と思いました。その『好き』というのも、ただテレビでサッカーを見るのが好きなのではなく、とことんサッカーを追求する方の『好き』でした。これが僕の一番大きな武器でしょう。

 だけど、好きなことの中にも嫌なことがありますよね。自分の息子にそのことを伝えたくて『お前さ、どんなに楽しいと思ったことの中にも、辛いことや嫌なことがあるし、我慢してやらなきゃいけないこともある。そこでほっぽりだしてたらさ、何も残んないよ』と言いました。それは20代の自分ができなかったことです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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