【ボクシング】長谷川穂積が刻んだ「記録」と「記憶」  波瀾と栄光に満ちたボクサー人生を振り返る

原功

王者のまま引退を発表した長谷川穂積。「記録」にも「記憶」にも刻まれた17年のボクサー人生を振り返る 【写真は共同】

 3階級制覇、35歳9カ月での戴冠など数々の輝かしい実績を残したボクシング界のレジェンド、長谷川穂積(35=真正)が「自分自身に対して証明するものも戦う理由もなくなった」として引退した。
 18歳で受けた初のプロテストで不合格だった少年が、世界の舞台で相手の呼吸を読みきるレベルに到達するまでの17年は波瀾と栄光に満ちたものだった。その功績は日本のみならず世界のボクシング史とファンの目にしっかりと刻まれた。

「3階級制覇」に35歳9カ月での世界戴冠

「3階級制覇」に35歳9カ月での世界戴冠と偉大な記録を打ち立てた長谷川 【写真は共同】

 長谷川は記録に残るボクサーだった。
「3階級制覇」(バンタム級、スーパー・バンタム級、フェザー級)は国内のジムに所属する選手としては亀田興毅(亀田)、ホルヘ・リナレス(帝拳)、井岡一翔(井岡)、八重樫東(大橋)に次いで5人目で、世界王座「10度防衛」(WBCバンタム級)は具志堅用高(協栄)の13度、内山高志(ワタナベ)と山中慎介(帝拳 ※継続中)の11度に次ぐ4位の記録だ。
 ラストファイトとなった9月のウーゴ・ルイス(メキシコ)戦では9回終了TKO勝ちを収めてWBC世界スーパー・バンタム級王座を獲得したが、このときの「35歳9カ月」での戴冠は越本隆志(FUKUOKA)の35歳0カ月、河野公平(ワタナベ)の34歳4カ月を更新する国内最年長記録となった。長谷川は3階級にまたがって16度の世界戦を行い13勝(8KO)3敗の戦績を残したが、この「13勝」は具志堅の14勝に次ぐ2番目の世界戦勝利数でもある。
 また、バンタム級時代には「5連続KO防衛」を収めたが、これも具志堅の6に次いで内山、山中と並ぶ2位の記録となる。さらにバンタム級時代の「5年の在位」は、内山の6年3カ月、ユーリ・アルバチャコフ(協栄)の5年4カ月、山中の5年1カ月(継続中)に次いで4位につけている。

 このほか、24歳で最初の世界王座を獲得してから最後の世界戦まで11年以上も最前線で活躍し続けた息の長さにも驚かされる。緊張を強いられる最高レベルのステージにおいて、長谷川がいかに自己管理を徹底し、戦闘意欲の維持に努めてきたかがうかがわれる数字といえる。
 また、16度の世界戦で様々な地域、国のトップ選手と対峙した点も特記しておきたい。国の数でいえばタイ(2度)、メキシコ(7度)、南アフリカ共和国(2度)、イタリア、ウルグアイ、アメリカ、ニカラグア、スペインの8カ国だが、地域でみるとアジア、北米、南米、アフリカ、ヨーロッパと幅広く、まさに世界を相手にしてきたことが分かる。長谷川は「たとえばメキシコの選手はスー・ハー・スー・ハーと呼吸の間が大きいが、タイの選手は呼吸が小さい。それらを読んでベストと思われるタイミングにパンチを打ち込むように考えて戦った」と話していたものだ。常人の想像も及ばないレベルで戦っていたことが分かる。

 興味深いのはバンタム級で5度目の防衛を果たすまでの25戦が23勝(7KO)2敗だったのに対し、キャリアの後半ともいえる以後の16戦が13勝(9KO)3敗だという点だ。前半期のKO率は28パーセントに留まっているが、後半期は対戦相手の質が上がったにもかかわらず56パーセントに跳ね上がっているのである。後半期に長谷川のボクシングが以前よりも攻撃的になったことの証左といえるかもしれない。ちなみに前半期の2敗が判定負けだったのに対し、後半期に喫した三つの敗北はすべてKOによるものだ。プロとしてリスクと向き合ったことの結果といえるかもしれない。

 やり残したことがあるとすれば、海外進出であろう。サウスポーの長谷川のボクシングはスピード感に溢れ、リズミカルでスキル(技能)の面だけを取り上げても十分に堪能できるものだった。加えてルイス戦でみせたように、覚悟を決めた打撃戦を厭わない強気な一面もあった。日本が誇る最高傑作をアメリカやヨーロッパのファンにも生で見てほしかったという思いは残る。

記憶に刻まれる“初戴冠”と“ラストマッチ”

“ラストマッチ”となった16年9月のウーゴ・ルイス戦は圧倒的不利を覆しての王座戴冠となった 【写真は共同】

 長谷川は記憶に残るボクサーでもあった。
 引退会見の席で、印象に残る試合として長谷川は「どれが一番というのは難しいけれど、初めて(世界)チャンピオンになったときは夢がかなったので嬉しかった」と、05年4月のウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)戦を挙げた。辰吉丈一郎(大阪帝拳)を2度にわたって下し、のちにスーパー・バンタム級で7度の防衛を果たす西岡利晃(帝拳)の挑戦を4度も退けたウィラポン攻略は、長谷川のみならず日本のファンの願望でもあった。
 そのウィラポンとの再戦は戦慄を覚えるようなKO決着だった。長谷川が軽く出した誘いの左に相手が右ストレートを被せてくるのを想定して放った右フック。狙いどおりの一撃で長谷川は歴戦の雄をキャンバスに沈めてみせたものだ。技と力、頭脳の融合による鮮烈なワンパンチKOだった。新時代の到来を印象づける試合だったといえる。

 長谷川本人は触れられたくないかもしれないが、個人的には10年4月のフェルナンド・モンティエル(メキシコ)戦も名勝負のひとつとして挙げたい。事実上、モンティエルの左フック一発で勝負が決した試合(4回TKO)だが、両者のスキルや駆け引きなどボクシングの醍醐味がたっぷり詰まった試合だった。実績も予想も五分、見る側も尋常ならざる緊張を強いられるカードで、予想に違わず一瞬たりとも目が離せない展開という試合はそうそうあるものではない。主役の長谷川が敗れて11度目の防衛に失敗した試合だが、その年の日本の最高試合に選ばれたほどだった。

 3カ月前のルイス戦もファンの記憶に長く残ることだろう。オンラインカジノのオッズが5対1で王者有利と出ていたこの試合、長谷川は9回にルイスの左アッパーを浴びて窮地に陥ったが、ここで猛攻を仕掛けてきた王者と殴り合った。強い覚悟の感じられる打ち合いだった。制したのは長谷川だった。このラウンドが終わるとルイスは棄権、左目上から鮮血を滴らせながら長谷川は勝者コールを受けた。若さと勢いと可能性に溢れた24歳の初戴冠のときとはひと味もふた味も異なる、胸の奥が熱くなるような感慨深いシーンだった。

 たら、ればを言えばきりがないが、期待された世界5階級制覇王者、ノニト・ドネア(34=フィリピン/米国)との頂上決戦が幻に終わったことは残念だ。世界的な知名度と評価の高いドネアはバンタム級時代、「長谷川はスピードあってテクニカルで頭脳的な選手。戦う機会があると思って研究していた」と明かしたことがある。
 そのときは長谷川がモンティエルに敗れたため対決は実現しなかったが、5年の年月を経てスーパー・バンタム級の王者同士の統一戦として17年に拳を交えるプランが進行中だったと聞いている。そのドネアが11月に24歳の若い挑戦者に敗れたため、長谷川のモチベーションが切れたのかもしれない。そうだとすれば、つくづくドネアとは対戦の縁がなかったということになる。

 99年11月のプロデビューから17年。2000年代の日本のボクシング界を牽引してきた長谷川は41戦36勝(16KO)5敗の戦績を残してグローブを壁に吊るした。その功績は記録にも記憶にも深く刻まれた。(※敬称略)
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著者プロフィール

1959年、埼玉県深谷市生まれ。82年にベースボール・マガジン社入社。以来、「ボクシング・マガジン」の編集に携わり、88年から11年間、同誌編集長を務める。01年にフリーランスになり、WOWOW「エキサイトマッチ」の構成などを担当。専門サイト「ボクシングモバイル」の編集長も務めている。

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