「ヴォルカ」から見た昇格と統合の物語 J2・J3漫遊記 鹿児島ユナイテッドFC後編
なぜ鹿児島には地元出身者が多いのか
先制点を決めた永畑と、それを見つめる赤尾(7)。2人は共にヴォルカ鹿児島の出身だ 【宇都宮徹壱】
鹿児島のトップチームに所属している選手は現在29名。このうち地元の鹿児島出身は11名いる。また、鹿児島出身者ではないものの、統合前の2クラブ(ヴォルカとFC KAGOSHIMA=FCK)、そして地元の鹿屋体育大学や鹿児島実業高(鹿実)出身の選手が6名。合計17名、つまりトップチームの半分以上が「鹿児島ゆかりのある選手」ということになる。
鹿児島の地元比率が高いことについて、クラブ代表である徳重剛自身が「意図的にそうしている」と語っている。無論、それはそれでクラブの方針としてはありだ。とはいえ、もともとクラブの成り立ちと予算規模を考えると、地元色が強くなるのは必然であったとも言える。九州リーグに所属していた、県内の2つのクラブが統合したのが2014年。その後、カテゴリーが上がっても、選手の入れ替えは最低限にとどまった。鳥取戦でゴールを決めた永畑と赤尾も、共に元Jリーガーとしてのキャリアを持ち、九州リーグとJFLを経験したのちに、再びJの舞台に戻ってきている。
さて、本稿の前編でも触れたとおり、9月28日にJリーグは鹿児島に対して、J2ライセンスを交付しないことを発表。驚異的なスピード感でJ3まで駆け上がってきた鹿児島だが、今回はスタジアムの案件が足かせとなり、J2昇格の夢を絶たれることとなった。いくら鹿児島が「Jクラブになった」とはいえ、J3とJ2とではクラブとしての格も周囲の注目度も大きく異なる。加えて今季はJ3で上位争いをしていただけに、J2昇格は彼らにとってリアルな目標でもあった。それだけに、今回のライセンス不履行の決定は、クラブにとって大きなダメージとなったことは想像に難くない。
先ほど私は、鹿児島が「驚異的なスピード感でJ3まで駆け上がってきた」と書いた。だが、彼らのJリーグへの希求というものは、実はFCKが設立される2010年以前からあったのである。その中心となったのが、のちにFCKと統合することになるヴォルカ鹿児島。鹿児島の前史はFCK側から語られることが多いが、本稿はあえてヴォルカ側からのアプローチを試みることにしたい。起点となるのは、今から20年前の1996年である。
幻に終わったW杯会場招致とスタジアム建設
ヴォルカ鹿児島の前身は1959年創設の鹿児島サッカー教員団。96年からJを目指していた 【宇都宮徹壱】
「ちょうどその年(96年)の10月から、県のサッカー協会で働くようになったので、よく覚えています。私も知っている人が、選手としてポスターやチラシに載っていて、仲間内で盛り上がっていましたね(笑)。当時県協会はJFL昇格を目指すチームとして支援活動をスタートした年でした」
96年といえば、アビスパ福岡が九州初のJクラブとなった年。これに呼応するように、それまで「特別活動地域」として九州3県を準ホームとしていた横浜フリューゲルスの鴨池での試合も激減していた。一方で、鹿実出身の城彰二や前園真聖も、Jリーグや日本代表で活躍している。「ならば鹿児島からもJクラブを」という機運が高まるのも自然の流れだったのかもしれない。そしてもうひとつ、この機運の追い風として期待されたのが、02年のワールドカップ(W杯)。実は鹿児島県も、開催地の立候補を検討していたという。初めて聞く話だったので、最初は半信半疑であった。だが県協会のサイトを見ると、確かに「平成2年1月 W杯サッカー鹿児島招致夕べの集い開催」という記述がある。
平成2年といえば1990年。日韓共催が決まる6年前の話だから、おそらくアイデアレベルの話だったのだろう。とはいえ、鹿児島市中山(ちゅうざん)に3万人規模のスタジアムを作る話は実際にあったようだ(現在は県と市のスポーツセンターとなっていて、鹿児島もここをトレーニングで使用している)。この話が具体化していれば、「ヴォルカをJクラブに」という話が全県レベルで盛り上がっていただろう。しかし結局、W杯招致の話もスタジアム建設の話も立ち消えとなり、ヴォルカのJへの動きは徐々に停滞してゆく。のちにヴォルカの最後の代表となる湯脇健一郎(現・鹿児島運営部)は、こう回想する。
「確かにあの頃は『Jを目指すんだったら、ヴォルカしかない』という感じでした。でも、その後が順調に続いたかというとね……。一時期、前田浩二さんが監督兼選手で来た時は盛り上がりましたけど(03〜04年)、それ以外はワクワク感がないまま時が過ぎていったというのが実際のところだと思います」