快進撃の鹿児島を悩ませるスタジアム問題 J2・J3漫遊記 鹿児島ユナイテッドFC前編

宇都宮徹壱

ルーキーイヤーながらJ3上位を堅持する鹿児島

J3に昇格して1年目ながら上位争いを続ける鹿児島。その原動力となっているのは何か? 【宇都宮徹壱】

 鹿児島ユナイテッドFCのホームスタジアム、鹿児島県立鴨池陸上競技場が建設されたのは1970年。大阪で万国博覧会が開催された年だから、もう46年も昔の話である。今年39歳になる鹿児島の社長、徳重剛にとって鴨池は、故郷の原風景の中にあった。

「鹿児島のサッカー界にとって鴨池は聖地ですが、実は私の実家が鴨池のすぐ近くなんですよ(笑)。ですから物心がついた時から、鴨池は身近な存在でしたね。88年のキリンカップでフラメンゴが来た試合も見ていますし、(横浜)フリューゲルスがこっちで試合をしていたのは高校生の時でした。ナイトゲームでの照明のまぶしさはよく覚えています」

 99年元日の天皇杯決勝を最後に、横浜マリノス(当時)との吸収合併という形で消滅した横浜フリューゲルス。Jリーグ開幕時の93年から95年まで、フリューゲルスは長崎、熊本、鹿児島の九州3県を「特別活動地域」としていた。96年にアビスパ福岡がJリーグに加入したことで、九州地域をカバーする必要がなくなったが、それでも鴨池では98年までフリューゲルスのホームゲームが開催されている。余談ながら、合併が決まってからのフリューゲルスは公式戦無敗のまま天皇杯優勝を果たしているが、クラブとして最後に敗れた会場が、ここ鴨池であった。

 第20節を終えた時点でJ3リーグの3位につける鹿児島は9月11日、鴨池で15位のガイナーレ鳥取を迎えていた。試合は、序盤は鳥取がペースを握ったものの、前半23分のフェルナンジーニョのPK失敗から潮目が変わる。42分、永畑祐樹のゴールで鹿児島が先制(これが鹿児島の前半唯一のシュートであった)。そして後半3分には、ゴール正面で得たFKのチャンスを赤尾公が右足で直接決めて2−0。結局これがファイナルスコアとなり、鹿児島は2位に浮上した。

 昨シーズンから鹿児島を率いる浅野哲也監督は、「この状況で戦えることを幸せだと思え。こういう環境を楽しめるようになってこそ上に行ける」と選手たちを鼓舞したそうだ。それにしても、J3のルーキーイヤーとなる今季、鹿児島の好調を支えているものは、果たして何なのか。そして1シーズンでのJ2昇格は、本当に可能なのだろうか。それらの疑問を探るのが、本土最南端の地を訪れた一番の理由であった。

徳重社長が8年前に語っていた夢

「ホームゲーム10万人」となった家族と一緒に記念撮影をする、鹿児島の徳重社長(左) 【宇都宮徹壱】

 昨シーズンのJFLを4位でフィニッシュし、今季より九州8番目のJクラブとなった鹿児島ユナイテッドFC。もともと高校サッカーの世界では、鹿児島実業や神村学園、鹿児島城西といった名門が有名で、日本代表やJリーガーを何人も輩出している土地柄である。これまでJクラブがなかったことが、むしろ不思議なくらいであった。とはいえ、九州リーグ時代が長かったギラヴァンツ北九州(当時の名称はニューウェーブ北九州)、あるいはスタジアムの問題でJFLに4シーズン足踏みしていたV・ファーレン長崎に比べると、「気がついたらJクラブになっていた」と感じるサッカーファンも少なくないのではないか。

「ユナイテッド」というクラブ名が示すとおり、このクラブはヴォルカ鹿児島とFC KAGOSHIMA(FCK)という2クラブが合併して誕生した。このうち歴史が古いのはヴォルカだが(1959年創設。当初の名称は『鹿児島サッカー教員団』)、彼らの独力で鹿児島にJクラブが誕生することはなかった。「上を目指す」動きを活性化させる契機となったのが、FCKの創設。鹿児島県リーグ1部に所属していた「大隅NIFSユナイテッドFC」というクラブが、装いも新たにFCKとなったのは2010年のことであった。

 FCKを立ち上げた徳重の前職は、公認会計士である。東京の大学を卒業後、地元には戻らずに会計士の仕事を続けながらスポーツビジネスを学んでいた。実は私は、とある会合で徳重と出会い、帰りの電車で当人から「故郷の鹿児島に、いつかJクラブを作りたいんですよね」という夢のような話を聞いたことがある。08年の夏のことだ。それから2年後の10年、徳重は大隅NIFSをFCKに改組して自ら代表となり、14年にはJFL昇格とヴォルカとの統合を果たし、今季はとうとうJ3リーグにまで到達した。鹿児島ユナイテッドとなってから2年。FCKの立ち上げから6年。私が徳重の夢を教えてもらった時から数えても、わずか8年である。何というスピード感であろうか。

 鹿児島のように、地域リーグからJまで一気に駆け上がったクラブは、過去にもいくつかあった。大分トリニータ(現J3)の成長と転落の物語はあまりにも有名だし、その後もFC岐阜、ファジアーノ岡山、レノファ山口(いずれも現J2)といったクラブの名を挙げることができよう。もちろん、すぐ上がればよいという話ではない。実際、岐阜はJ2に到達してから経営難で長らく苦しんだし、逆に岡山は「早く昇格するよりも、地域に愛されるクラブづくり」(木村正明社長)を是としてきた。こうした先達たちの明暗を、つぶさに見てきたであろう鹿児島。J2昇格が視野に入ってきた今、どのような思いを抱きながら残りのシーズンを駆け抜けようとしているのだろう。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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