山本昌、50歳での最終登板へ意欲 「最後が途中降板は嫌」引退会見全文

ベースボール・タイムズ

野球というスポーツに感謝

かつての恩師・星野氏からは激励の言葉が送られた(写真は星野氏が監督を務めた00年のもの) 【写真は共同】

――野球とはどんな存在?

 本当にあって良かったです。このスポーツに出会えて良かった。これだけ奥が深くて、これだけ楽しめたスポーツは自分の中ではないので。よくぞ野球というスポーツがあってくれたと感謝しています。僕は野球がなかったらどうしているんでしょうねと(笑)。

 大して運動神経が良いわけでもないですし、体育の成績も10を取ったことがないですから。ただ投げる技術に関してはあったようで、小さい頃から速くないですけどコントロールは良い方でした。投げることに関しては秀でるものがあったのでしょう。野球じゃなかったらスポーツ選手としては大成するところがありませんので。野球というスポーツに感謝しています。

――トレーニングなどさまざまな手法を取り入れたきっかけになったのは?

 これは90年台の中盤に膝の手術をして(鳥取のワールドウイングジムの)小山裕史先生に会ってからですね。変えることは怖いことじゃないと気づいて、変えることは進化することなんだととらえられるようになりました。

 だからこそいろんなものを取り入れたり、ワールドウイングにはアマチュアの選手もたくさん来て、彼らの選手のすごさを目の当たりにして、プロはこれでいいのかと。アマチュアでもこれだけ追い込んでやっているのに、給料をもらっている自分たちはなんだと。もっともっと上を目指さないとダメだと。ここ20年はその繰り返しでしたね。

 上に行くためにどんどん変えていこうと。その中で自分に必要なものをしっかり押さえて、ダメだったものは捨てて、それの繰り返しでここまで来れたのだと思います。本当にいろいろなことをやらせていただいて、この歳までやらせていただいて、本当にこんなに幸せな野球人生はないと思います。

――「中年の星」として応援をしてくれた同世代に対しては?

 僕の方が励ましをいただいて力にさせてもらっていました。そういう方たちがいることで頑張らなきゃと思っていましたので。もし僕の頑張りがみなさんの力になっていたのなら、僕も力をいただいたと思います。たくさんの声援をいただきましたので、その方たちのためにという思いと、逆に励まされていたと感謝しています。

――最近5年間はよく頑張れたというのは、後ろ向きになる部分もあった?

 若い頃よりもすべてを野球に捧げないとできない。皆さんご存じのことですが、いろんな趣味がありまして、若い頃は野球をしっかりやったあとにでもそれができましたが、5年前からはすべてのアンテナの方向を野球に向けないと、野球そのものができませんでした。後ろ向きにはなっていないです。前向きの中で一生懸命、すべてを出し切ってやれて、頑張れました。前例がない中で試行錯誤してやれました。ただもうひとついきたかったというのはありますけど、今ここで会見をしていることには後悔していないです。

――昔の自分に声を掛けられるとしたら?

「あきらめるなよ」と。実際、あきらめてはいなかったんですけど、小、中学校と補欠で野球をしていましたので。今思えば、負けたと白旗を挙げていたら、おそらく普通の野球があまり強くない高校に行って普通に野球をして終わっていたと思います。自分で言うのもなんですけど、いろいろなことが起きて奇跡のような野球人生を送ってこれました。プロに入る前から奇跡みたいなことが多かったです。

――タフさはお母様の影響?

 そうですね。気持ちは母似だと思います。小さい頃から愚痴ひとつ聞いたことがなかったので。お袋から強い体をもらって、お父さんには野球を幼稚園の頃からいつもキャッチボールをしてくれた。そういう中で野球を好きになっていった。昭和40年代の頃は、おそらく野球が一番熱かった時代で、そのときに野球を始めた。まさかここまでやるとは思わなかったので、昭和40年(1965年)生まれの最後の戦士としてよくここまでやれてホッとしている部分もあります。

今の技術なら2年連続20勝も

――世界記録のために続ける意欲はなかったか?

 僕らは戦力としてやりたい。戦力としてプロ野球選手でいたいと思っているので。そこで今年1年チャンスをいただいて、このような成績で終わってしまいました。たまたま記録が目の前にあるので惜しいと言われますが、それがなければ今辞めるのは当然のことです。しっかり決断できたと、この会見中も思っています。

――趣味で解禁したいことは?

 クワガタは奥さんがダメなんですよ(笑)。あれは無理みたいで断念せざるをえないです。ラジコンは世界チャンピオンと連絡を取り合いまして、復活するという話もちらほらあります。今度、世界戦があるんですけど、そのスポンサーをやろうと思っています。

 趣味は趣味でいろいろありますが、先日星野監督の叱咤(しった)激励の言葉が新聞にあり、「一生野球のことを考えて終われ」という言葉もいただきましたので、遊んでいると怒られそうなんです。一生それで終われなんてすごいと思いますが、ただ最初の方にも言いましたけど、やっぱり野球を勉強し直す、いろんな角度から見る。自分は投手からしか見たことがありませんので。おそらく一塁を1イニング守ったことしかないのです。もしかしたらここ5年と一緒で、もっとやらないとと思えば趣味の方に一歩も踏み入れることなく勉強に没頭している可能性もあります。そこにはまだ一歩も踏み出していませんのでなんとも言えませんが、もし余裕があればラジコンでもやれればと思います。

――主力としてうれしかった、悔しかったと思い出されることは?

 うれしかったのは優勝のシーンですよね。88年の優勝も印象にありますし、06年も印象にありますよね。ただ(07年の)日本一のときにベンチ入りができていなかったことが悔しかったです。野球人生で一番悔しかったのはこの前の8月9日の登板ですね。あれは一番悔しいです。あの場面でああいうふうになってしまうのが不徳の致すところだと思います。何が足りなかったんだろうと思えば、努力が足りなかったからああいうふうになるんでしょう。今までの中で一番悔しかったですね。

――広島戦で登板する機会があればどんなピッチングをする?

 体を気にして投げる必要はないので目いっぱいいきたいと思います。おそらく打者1人しか投げられないと思うので、全力でいきます。なんとか頑張りたいと思います。状況が許せばですけどね。このあと広島に遠征に行きますので。でも、明日雨っぽいよね(笑)。そうすれば10月7日か8日に入るらしいので、もしかしたら寿命が延びるかもしれません。5日ほど。

――32年で全盛期はいつ?

 全盛期は93年と94年じゃないですか、おそらく。ただ技術は今が全盛期です。あのときの体力と今の技術があったら20勝はしているでしょうね。終わるから言えるんですけどね(笑)。17勝、19勝とやりましたけど、今の技術なら連続で20勝していても不思議じゃないです。技術的には最高潮。全盛期というか脂が乗りきっている状態でした。あのころは技術うんぬんよりも体がうまく動いていたというか、体が強かった。体力もありました。中4日でいっても全然疲れなかったです。

 ここ最近ですね、バス(の移動時間)が長いと腰が張ると言うじゃないですか。それを感じたことがなかったんです。新幹線が長いと次の日は体が動かないとか。それが分かるようになったのが去年ぐらいですね。そう考えると競馬じゃないですけど晩成の人間だったと思いますね。

(取材:高橋健二/ベースボール・タイムズ)

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著者プロフィール

プロ野球の”いま”を伝える野球専門誌。年4回『季刊ベースボール・タイムズ』を発行し、現在は『vol.41 2019冬号』が絶賛発売中。毎年2月に増刊号として発行される選手名鑑『プロ野球プレイヤーズファイル』も好評。今年もさらにスケールアップした内容で発行を予定している。

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