澤穂希「違う自分を知った」最後のW杯 女子サッカーのレジェンドが歩んだ軌跡

江橋よしのり

本当に悔いなくやりきった

澤と毎日練習や生活を共にするだけでも、各選手にとっては貴重な財産となる 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】

 試合だけではない。サッカーの楽しさも怖さも、すべてを知る澤という選手と毎日練習や生活を共にすることは、なでしこジャパンの各選手にとって貴重な財産となる。

 ある日の練習ではこんなことがあった。澤は若手とともにグランドに出て、5対5のミニゲームで体を温める。そのミニゲームで相手のきわどいボールに対し、澤は懸命に足を投げ出してスライディングでパスをカットしてみせた。控え組の練習の、しかもウォーミングアップでさえ「グラウンドでは一瞬でも気を抜いてはいけない」というメッセージを、澤はたったひとつのプレーで全員に伝える。「なでしこたちは、まだまだ彼女の背中を見て学ぶことがある」。佐々木監督もそう言って目を細める。

 そしてなでしこジャパンは、準決勝までの6試合すべてで先制。相手にリードされたことすら一度もないまま決勝に進出した。頂点を懸ける相手は、またしても米国だ。澤の出番は思いがけず早く訪れた。前半33分。澤はほとんどウォームアップなしでピッチに入り、1−4と相手を追いかけるチームを引っ張った。しかし逆転はならず、なでしこジャパンは2−5で敗れた。

「本当に悔いなくやりきった気持ちです」と、澤がこの大会を振り返る。「4年前は山郷(のぞみ)さんが全力でチームをサポートしていました。今回は私がそういう立場で、微力ながらみんなのモチベーションを上げることを考えてやってきました。この大会は違う自分を知る機会になったという意味で、印象深いです。影でたくさんの方たちが、選手たちが全力で戦えるようにと、チームを支えてくれているんですよね。私も今回、違った場所からみんなの頑張るところを見られたことが、いい経験になりました」

ワンバックと撮った写真

日米のエースとして君臨してきた澤とワンバック(右)は、お互いを尊敬し合い、高め合ってきた 【写真は共同】

 試合終了後のコメント取材を手短かにすませた彼女は、バスへ向かうスタジアム内通路の途中で急に走り出した。パタパタという靴音と、少女のような無邪気な声が、巨大な体育館のような通路の高い天井に反響してエコーする。その様子で、澤がどうして走り出したのかが分かった。駆け寄る先に、その人がいたのだ。

「アビー!」と、澤が呼ぶ。決勝戦は2人とも途中出場だった。後半残りおよそ10分というタイミングで登場し、(カルリ・)ロイドからキャプテンマークを渡されてプレーしたその人は、ピッチの中で澤と軽く手を合わせていた。タイムアップの直後にも、2人は健闘をたたえ合うハグをした。そして、帰り際にもう一度2人は顔を合わせ、たっぷりとハグをした。慌ててスタッフにカメラを渡して、肩を組んで写真に収まる。こちらから表情は見えないが、きっといい笑顔をしているはずだ。

 そうだよな、と私は気づく。もしかしたら、この2人が現役選手として対戦する機会も、これが最後なのかもしれないのだと。16年のリオデジャネイロ五輪で両国が直接対決するとも限らない。2人ともメンバーに選ばれているかどうかも分からない。もっというと、両国が出場するかどうかもまだ決まっていないのだから。

 2人はこの時撮った写真をきっと、ずっと、おばあちゃんになっても大切に保存するのだろう。やがて長く充実したサッカー人生を振り返り、お互いを思い出す時が来る。そのたびに2人はこのファイルを開くのだろう。レンズに向けた笑顔は、ずっと先の未来の2人に届ける笑顔でもある。

 6大会通算12勝3分け9敗、出場時間1890分、合計8得点の輝かしい記録を残して、澤穂希がW杯の舞台を降りた。高め合い、支え合い、尊敬し合った親友、アビー・ワンバックとともに。澤の胸には今、世界大会3つ目のメダルが輝いている。

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著者プロフィール

ライター、女子サッカー解説者、FIFA女子Players of the year投票ジャーナリスト。主な著作に『世界一のあきらめない心』(小学館)、『サッカーなら、どんな障がいも越えられる』(講談社)、『伝記 人見絹枝』(学研)、シリーズ小説『イナズマイレブン』『猫ピッチャー』(いずれも小学館)など。構成者として『佐々木則夫 なでしこ力』『澤穂希 夢をかなえる。』『安藤梢 KOZUEメソッド』も手がける。

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