渡嘉敷来夢、WNBA挑戦の経緯と未来 国内に敵なし、現状打破を求めて海を渡る

小永吉陽子

満を持しての海外初参戦

WNBAに挑戦する渡嘉敷。日本のエースが満を持して海を渡る 【写真:アフロスポーツ】

「新しい自分に出会えるのが楽しみでしかたないんです」

 そう言って、渡嘉敷来夢は5月9日に成田を飛び立った。向かう先はサンディエゴ経由のシアトル。サンディエゴでコンディション調整をしたのち、5月17日から開始するシアトル・ストームのトレーニングキャンプに参加する。渡米を前に空港でインタビューを受ける渡嘉敷からは一切の気負いは感じられず、ただただ、成長の機会を目前にしてあふれる希望を感じさせた。

 192センチの高さと抜群の運動能力を持つ日本のエースが世界最高峰であるWNBA(米国女子プロバスケットボールリーグ)シアトル・ストームと契約を交わしたと発表されたのは、自身が所属するJX−ENEOSがWリーグ7連覇を達成した翌日、4月6日のことだった。

 オファーの内容はトライアウトではなく、各チーム15名前後しか参加できないトレーニングキャンプから参戦するもの。JX−ENEOSが渡嘉敷のプレー映像をWNBAの3チームに送ってプロモーションをかけ、そのうちの一つであるシアトルからオファーが来たのが今年の3月。渡嘉敷がWNBAのコートに立てば、JX−ENEOSの先輩である萩原美樹子、大神雄子に続いて日本で3人目のWNBAプレーヤーの誕生となる。

 もはや、国内に敵はいない。名門・桜花学園高時代はインターハイとウインターカップの2大大会を3連覇し、U−18アジア選手権では初優勝の原動力となった。JX−ENEOSに入団してからも在籍した5年間はすべてリーグ制覇を達成している。今季のWリーグでは、レギュラーシーズンとプレーオフのMVPをダブル受賞し、得点王、リバウンド王、ブロックショット王、フィールドコール成功率1位とタイトルを総なめにした。

 まさに、満を持しての海外初参戦には「ようやく」という声も多く聞こえ、本人も「(6月で)24歳は決して若くはない年齢」と言う。だが本人にしてみれば、不安を抱えているうちは踏み出すことができなかった。その不安とは、高校時代から常に爆弾を抱えていた足首甲の疲労性のけがだ。

人生最大のターニングポイント

完全復帰を果たしたのは2013年。けがを乗り越えたことが最大のターニングポイントだった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 Wリーグ3年目までの渡嘉敷は「いつか折れるんじゃないか」という疲労骨折との恐怖と戦っていた。傍から見れば信じられないことかもしれないが、中心選手として活躍しながらも、「自信がない」と口にしてはちゅうちょしたプレーを繰り返すこともあった。

 2011年に日本代表としてはじめて五輪アジア予選に臨んだときも、けがを抱えて万全な状態とは言えず、翌12年には苦渋ともいえる五輪世界最終予選のメンバーから外れる選択をして、右足甲の舟状骨(しゅうじょうこつ)の手術に踏み切っている。

 完全復帰を果たしたのは13年。「けがとリハビリを乗り越えたことが人生で最大のターニングポイント」と自ら語る渡嘉敷は、13年秋に開催したアジア選手権において、日本を43年ぶりにチャンピオンに導く活躍を見せ、大会MVPを受賞。192センチの高さで速攻の先陣を走り、リバウンドに跳び続ける日本のエースを、ライバルの中国も韓国も止めることはできなかったのだ。

「けがを乗り越えたことでポジティブな自分に出会えました。ここからが本当のスタートです」

 本格的にWNBA挑戦を視野に入れ始めたのは、足の傷が癒え、アジアMVPの称号を手にしたあとからだった。

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著者プロフィール

スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者となる。日本代表・トップリーグ・高校生・中学生などオールジャンルにわたってバスケットボールの現場を駆け回り、取材、執筆、本作りまでを手掛ける。

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