生涯一度の大駆け、◎バリアシオン=乗峯栄一の「競馬巴投げ!第97回」

乗峯栄一

「天草四郎のバテレン予想屋」

[写真3]勢いなら“日経”重賞を連勝して臨むアドマイヤデウスだ 【写真:乗峯栄一】

 もう20年ぐらい前になるが、まだ甲子園球場の南に甲子園競輪場があったころ、「天草四郎のバテレン予想屋」というのを見たことがある。

「その昔、島原半島の最南端には岸壁に這いつくばる老松のような城があったとじゃ。北は絶壁、西はマムシの群れる竹林、東と南は天草列島までの海ヘビと人喰いザメのウヨウヨしている島原湾たい。大名すらもセチかあ、ヒジかあちゃうて放り出した城ばい。島原大江名の原城たい」

 球場と競輪場の間にある、雑草だらけの月見里公園で擦れた着流しのようなものを身につけた怪しげなおじさんが大声を出す。甲子園浜に沈む夕陽を受けてトボトボ帰る競輪客が「何事?」と立ち止まる。

「寛永十五年の正月、隠れキリシタン二万五千人が、その置いちかれた大江名の城に立てこもったとじゃ。信仰という名の幻想に踊らされた者ども二万五千人ばい。ワシか? ワシのことを聞いておるのか? おのが身の浅はかさに気づかぬ者どもを、草と壁土しか食べられんとこまでじっと追い込んだ“知恵伊豆”じゃ。火と水で攻め抜き、クルスの旗印をチリヂリに断ち切った“知恵伊豆”じゃ。おまいら、もう忘れたとか。デウスに磔刑(たっけい)を言い渡した大祭司カヤパの生まれ変わりと言われた松平伊豆守(いずのかみ)信綱を、おまいら島原の村人どもはもう忘れたとか」

 怪しい着流しおじさんは手の平を棍棒でバシバシ叩いて威嚇しながら、首の周りに紙フリルのようなものを着けた、これも奇妙な格好の男の周囲を歩く。着流しおじさんは“おまわりチャリ”の荷台から一枚の銅板を取り出し、地面に放り出す。

「伊豆守さま、一体これは何ですたい」と首フリルが聞く。

「セカラシカものよのお、隠れキリシタンというものは。いまさら何ば言うとる。踏み絵じゃろうが、踏み絵」

「ばってん、お奉行さま、わしら宗門人別帳にもちゅんと名前ば入っとりますし、壇那寺の月並の念仏講にもちゃんと参加しとりますし、万が一にもデウスなど信じとる訳がなかですたい」

「何でんよかけん、とにかく踏めばよか」

「それに伊豆守様、これは踏み絵いうたっちゃ、えろう字や数字が多かばってん。それに◎や△も入っとって……」

「新種の踏み絵ばい。最近は耶蘇の連中も賢かことば考えよるようになっての、今までのデウスやマリアの絵では効果が薄かことば分かってきたとよ。せからしかものよ。まあ何でんよか、何ちゅうことはなかけん、チョロッと踏めばそいでよか。さあ転べ。転んで楽にならんとね」

「ふ、ふ、踏めんばってん、ワシには。この新種の踏み絵はあまりに畏れおおて、踏めんとよ」

 首フリルは突然泣きそうな声を出してうずくまる。

おいは競輪界の天草四郎と言われとっと

[写真4]福永祐一の当たりも3歳時とは変わっている――ウインバリアシオンに勝機 【写真:乗峯栄一】

「そうね、踏めんとか、雲仙岳の噴火口は怖くなかと言うとるとやね? 大江名から普賢岳の頂上まで腰ミノに火ば点けて、ミノ踊りばして上って、火口に向けて逆さ吊り、ああ、言うも辛かぞ、ちったあ仕置きする側のことば考えてくれてもよかろうもんを。“島原のピラト”も辛かとよ。……どげんしても踏めんごたるなら、ミノ踊りばしてもらわにゃならんぞ。腰にワラミノば付けてな、ちょっと湿っとるごたるなら、愛用のタイガー印徳用マッチの出番たい。どんな、せからしか腰ミノでん、普賢岳の噴煙のごと、見事に燃え上がるとよ」

「おいは競輪界の天草四郎と言われとっと」と首フリルが呟く。

「ぐっはっはっは。えろう天草四郎とはイメージが違うばってん、ぐっはっはっは」

「四郎様は若くてもわしらの総大将たい。転ぶわけはなか。たとえ島原大江名に立てこもった二万五千人の隠れキリシタンがすべて転んだにしても、四郎さまは転ばんとよ、とそう言われてきたとよ。……ばってん、お許し下され、デウス様、マリア様。わし、もう転びますけん」

 首フリルは急に前に出て踏み絵を前にしてブツブツ言う。よく見ると、それは踏み絵ではなくて、今日の競輪出走表である。

「この木に登って、そっから踏みますけん」と首フリルは隣にある桜の木に登ろうとする。

「しょうのなか。この際、そいでん、よか」

「そいでん、こいでん、脚組んでアグラかいて尻から落とすとです。エイ、ヤーッ」と首フリルが叫ぶ。

「おお、翔んだ」

 翔んではいない。ドスンと落ちただけだ。

「ああ、翔んだ、デウス様のお力で翔んだ」と着流しがまた言う。

「あ、飛び上がって降りたところが」と着流しが出走表を覗き込む。「何とまあ、今日の6レース出走表じゃなかと。あ、神の啓示が降りたとじゃ。あ、6レースの大穴(3)と(1)の二つの欄に足がかかっとるとやなかか。こりゃえらいことぞ。マタイによる福音書にもちゃんと出とる。連勝単式の場合は左足が一着、右足が二着を表すとそう出とる。デウス様が(3)−(1)一本でよかったと、こういう預言をなさっとるとじゃ」

 いつのまにかデウス派に回った着流しが、首フリルの天草四郎を何回も桜の木から飛び降りさせて、次の日の予想をさせるという、そんな予想屋だった。

 隠れキリシタンのデウスなのか、和歌山訛りの“デ”ウスなのか、それも今回天皇賞の大きなカギの一つではある。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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