ロッテ・古谷拓哉に訪れた3度の転機、強い覚悟を持ってシーズン終盤戦へ

千葉ロッテマリーンズ

異例の駒沢大野球部への途中入部

名門・駒沢大野球部では異例の途中入部を果たし、プロへ進んだ古谷。彼の野球人生にはいくつもの転機があった 【写真提供:千葉ロッテマリーンズ】

 一直線ではない――。ここまで何度も人生の曲がり角で踏ん張ってきたからこそ、今の古谷がある。

 一つ目の転機は、大学1年の夏。駒沢大学付属岩見沢高校時代は2年夏と3年春の甲子園にエースとして出場したが、駒沢大進学後は野球部に入部しなかった。

「みんな、(高校の)部活が終わると遊びたいと思うじゃないですか。そのまま自分を律することができずに、大学生活を送ってしまっていました。フラフラした生活をしながら、どこかに『今のままでいいのかな』という違和感を抱いて過ごしていましたね」

 そんなとき、一人暮らしをしていたアパートの部屋で、何げなくテレビをつけた。その画面には、シドニーオリンピックの日本代表としてマウンドに上がる松坂大輔(当時・西武、現・メッツ)が映っていた。古谷は高校2年夏に出場した甲子園の開会式で、横浜高校3年でエースだった松坂に声をかけて一緒に写真を撮った。かつては同じ舞台にいた1学年上の投手が日の丸を背負って投げている。その姿を見て、目が覚める思いだった。

「高校の時点で雲泥の差はあったけど、かたやプロ野球選手で、ジャパンの一員。かたや勉強も私生活もだらしない大学生。自分の現状を思い知らされましたね」
 
 時を同じくして、高校時代にお世話になった鍼灸師から「野球はやっていないのか?」と声を掛けられた。背中を押された古谷は、決意する。「大学をやめて、クラブチームで野球をやろう」

 北海道の実家に帰り、親に相談した。答えは、もちろん「NO」だった。

「親からは『大学をやめるな。もしやめるなら、仕送りもしない』と言われました。そりゃあ、そうですよね、せっかく苦労して入れてもらったのに……。それでも野球がしたかったので、そのときは半ば家を出るつもりで東京へ戻ったんです」

 東京へ戻ると、高校時代にお世話になった人たちが心配して、アドバイスをくれた。

「せっかく大学に入れてもらったのに、お前は何を言ってるんだ! 大学で野球ができるなら、やってみろ!」

 高校の先輩で、当時、駒沢大の主将だった小原慶治(現NTT東日本コーチ)らの尽力があって、古谷は野球部への途中入部を認められた。

「駒沢大で野球をやれるとは思っていなかったです。みんなセレクションを通過して入ってきているのに、途中から入部するなんてありえない話ですよ。それなのに、みなさんがいろいろ話を通してくださって……。僕が左投手だったことも幸いしたんじゃないですかね。本当にありがたいと思いました」

 野球部に異例の入部を果たした古谷は、東都1部リーグで20試合に登板し、1勝7敗という成績を残した。

「あのことがなければ、野球をやっていなかったままでしょうね」

 古谷はしみじみと振り返った。

大学4年、社会人と2回の好投が切り開いたプロの道

 二つ目は、大学4年の春。リーグ戦ではなかなか結果が出せなかったが、オープン戦では良い投球が続いていた。社会人の強豪・日本通運と対戦して好投。日本通運への入社につながった。

「それまで大した成績も残していない投手でしたが、『だからこそ、どこも声をかけていないだろう』というのもあって、自分に声をかけてくれたようです」

 三つ目は、社会人2年目(05年)の都市対抗。準々決勝の三菱ふそう川崎戦で、2番手として登板し、後に優勝するチームに対して5回1安打無失点と好投した。そのピッチングがスカウトの目に留まり、その年の大学・社会人ドラフト5位で千葉ロッテに指名されることになる。

「社会人2年目は都市対抗の予選でも登板機会がなかった。でも、その試合で先発した投手が打たれてしまい、『次は誰に投げさせようか』となったとき、玉田淳コーチ(当時)が神長英一監督(当時)に『古谷で行きましょう』と推してくださった。それで投げさせてもらって、良いピッチングができた。その一発で、プロへの道が開けました」

2/3ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント