「週末だけのチーム」の知られざる舞台裏=J2・J3漫遊記 Jリーグ・U22選抜
メンバー集めが佳境を迎える木曜日の夜
今季からスタートしたJ3リーグに、唯一の選抜チームとして参加しているJ−22 【宇都宮徹壱】
最初に訪れたのは、東京・御茶ノ水にあるJFAハウス。ただしアポイントは、すでに日が暮れた19時である。取材に応じてくれたJ−22主務の池辺友和は、この時間になっても週末のメンバー招集に関する電話対応に追われていた。
この日は、J3第12節、対藤枝MYFC戦(5月18日)を3日後に控えた木曜日。この、各クラブとの調整が大詰めを迎える木曜日は、携帯電話が鳴りっぱなしだという。そしてチームが集合する金曜日、練習日の土曜日、試合日の日曜日を経て、選手がそれぞれ所属クラブに帰ってようやく、主務としての激務はいったんリセットされる。さて、現在のチームの集まり具合はどうなのだろうか。
「今のところ、(藤枝に行くメンバー)16人のうち15人が決まっています。あとの1人は、所属チームの前日練習が終わってからでないと判断できないということで、今は待ちの状態ですね。集合日の昼過ぎに決まることもあるし、集合当日の午後の練習があるクラブの選手については『何時になってもいいので、必ず金曜日中に来てください』とお願いすることもあります。その一方で、急に来られなくなるというケースもありますから、その場合はポジションごとに“保険”をかけておきますね。幸い、そこまで手詰まりになったことはないですが」
池辺のキャリアはちょっとばかりユニークだ。出身は広島で現在36歳。九州大学サッカー連盟の幹事など経験を積んだ福岡大を卒業後、Jクラブで働くきっかけを求めて、サンフレッチェ広島の某スポンサー企業に就職するも、半年で退社。その後、母校サッカー部・乾真寛監督の紹介によりアビスパ福岡後援会事務局で約1年半勤め、2002年から8年間は、アビスパ福岡のトップチームのマネジャーを務める。主務としての実績を積んだのはこの時期だ。そして10年からはJFA(日本サッカー協会)に職場を移し、主にアンダー世代の総務を担当。11年のメキシコと13年のUAE、2回のU−17ワールドカップ(W杯)にも総務として帯同している。これらの大会に出場した選手たちは、16年のリオデジャネイロ五輪を目指す世代でもあり、まさにJ−22の対象選手でもある。
主務という仕事のやりがいとは?
J−22主務の池辺友和。毎週木曜日になると携帯電話が鳴りっぱなしになる 【宇都宮徹壱】
「練習グラウンドの確保は、基本的に対戦相手のクラブに頼んでいて、向こうで探してくれるのは有難いですね。自分たちの練習場を貸してくれることもありますが、そういうケースはまれです。J3クラブの場合、そのチーム自体が練習場を転々としているのが実情ですから、無理にお願いすることはできません。時には『これは厳しいな』と思うことも実際にはありますが、夏芝が枯れて薄茶色になっているとか、ラインがないとか、フェンスがないのでボールがどこに飛んでいったのか分からないとか(笑)。でも海外遠征の時は、どんなグラウンドでも練習の質を下げてはいけない。ミスした時の言い訳は付きまといますが、どんな状況下でもぶれずにプレーできる選手になって欲しいと願っています。ただ、そこは現場スタッフのさじ加減ですが(笑)」
グルージャ盛岡との試合(3月23日)の前日には、季節外れの積雪に見舞われることもあった。すると盛岡側は、練習前日に自分たちの練習グラウンドとJ−22の両方を雪かきしてくれた。当日の朝、さらに雪が降ったが、盛岡はJ−22のグランドを優先的に雪かきしてくれたという。そこで「一緒にやろう」ということになり、同じコートを半分に割って練習することになったそうだ。J1はもちろんJ2でもあり得ないようなエピソードは、黎明期のJ3リーグでは今後もたくさん出てきて、やがては伝説化していくことだろう。そんな中でも池辺自身は、J−22の主務という仕事の向こう側に「未来の日本代表」を明確に意識している。
「主務というのは、いろいろな仕事の隙間をカバーする仕事だと思っています。ただ、ひとつの目標に向かって、チームで力を合わせて集結していくのは楽しい作業です。Jのトップチームとは違って、メディカルスタッフもコーチングスタッフも、役割が細分化しているわけではないので、その間をつなぐという意味でもやりがいのある仕事ですね。それと同時に、私はアンダー世代の仕事がメインでもあります。すべてを与えるのではなく、半分はあえて与えずに自分たちで考えさせるのもまた、われわれの仕事だと思っています。そこから成長していく選手たちの姿を見るのはうれしいですし、彼らがいずれA代表になって、さらにW杯に出場するようになったら、もっとうれしいでしょうね」