守備的な戦術変更の犠牲となった本田圭佑 第一次ミラノ日本人ダービーはお預け

神尾光臣

長友が待ちわびた本田との対戦

本田との初対戦を心待ちにしていた長友(中央)だったが、本田がミラノダービーのピッチに立つことはなかった 【Getty Images】

「(本田)圭佑と相手のチームとして戦うのは初めてで、その舞台がミランダービー。彼とは昔から同じぐらい高い志を持ってともにやってきた仲間でもあり、ライバルでもある。選手としても素晴らしい選手だと思うし、負けたくはない」

 イタリア・セリエA第35節(4月26日)のナポリ戦を戦い終えたインテルの長友佑都は、次節のミラノダービーを心待ちにしていた。本田とのダービーマッチが実現するからだ。両者の直接対決は、実は本田がミランに移籍した直後の1月、コッパ・イタリア準々決勝で実現する可能性があった。ところがインテルはその前にウディネーゼに敗れて(0−1)、ダービーは実現ならず。「本当に残念でしたね。勝って、ミランも勝てば圭佑と勝負できるので、何としても勝ちたかった」と本人はとても悔しがっていた。

期待された直接マッチアップ

 しかし4カ月後、リーグ戦でミラノダービーがやってくる。しかもただ日本人同士が同時にピッチに立つということだけではなく、両者が直接マッチアップする可能性もあった。長友はインテルで左のウイングバック(WB)として定着し、本田もまた4−2−3−1の右MFとして出場機会を多く得ていたのだ。

 ご存知の通り、本田は本来トップ下の選手。だがクラレンス・セードルフ監督は右サイドをあてがった。「彼の今までのプレーを見てきた結果、得意なプレーゾーンでやらせるためにはこれが最適」と指揮官は確信していたのである。もっとも当初は結果が出なかった。同2列目のカカやアデル・ターラブト、あるいは一列下でゲームを動かすリカルド・モントリーボらとの連係が成り立たず、パスをもらうことができずに孤立することが多かった。周囲とコミュニケーションが取れず、ピッチで浮いているように見えた様子から、地元メディアからは「火星人」などと不名誉なあだ名ももらっている。

 しかし右サイドとして実直なプレーを続けると、やがて結果が付いてきた。30節(3月26日)のフィオレンティーナ戦で中盤のプレスからサイドバック(SB)のカバーにいたるまで献身的に守備をし、アウェーでの貴重な勝利に貢献。すると次のキエーボ戦では見違えるようにパスを預けてもらい、右サイドから正確なクロスでカカのゴールをアシスト。さらに32節(4月7日)のジェノア戦では、カウンターから前線へ飛び出してリーグ戦初ゴールを決めた。

 フィオレンティーナ戦から、チームは5連勝を記録する。1月の就任からチームの掌握に戸惑い、解任論まで飛び出していたセードルフ監督はこれで批判の回避に成功、なによりチームの順位は急上昇を果たした。その間に本田は攻撃だけでなく、サイドとして積極的に後方をカバーするなど守備も懸命にこなしている。「攻守両面をしっかりとこなしてくれる選手だ」(セードルフ)。トップ下として攻撃の軸となる日本代表のイメージとは異なるが、本田はチームへの献身性で信頼を得ていたのである。

 一方の長友は、今季攻撃力を大きく開花させ、5ゴール4アシストと実績を残している。つまり長友が仕掛け、本田が右サイドとしての守備からカウンターを狙うという展開も予想できた。当然攻撃になれば本田は外にも中にも自由に動くから、それに対して長友はどう対応するのか。マッチアップには、さまざまな見どころが予想された。

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著者プロフィール

1973年9月28日、福岡県生まれ。東京外国語大学外国語イタリア語学科卒。97年の留学中にイタリアサッカーの熱狂に巻き込まれ、その後ミラノで就職先を見つけるも頭の中は常にカルチョという生活を送り、2003年から本格的に取材活動を開始。現在はミラノ近郊のサロンノを拠点とし、セリエA、欧州サッカーをウオッチする。『Footballista』『超ワールドサッカー』『週刊サッカーダイジェスト』等に執筆・寄稿。まれに地元メディアからも仕事を請負い、08年5月にはカターニア地元紙『ラ・シチリア』の依頼でU−23日本代表のトゥーロン合宿を取材した。

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