守備的な戦術変更の犠牲となった本田圭佑 第一次ミラノ日本人ダービーはお預け

神尾光臣

戦術変更の陰にオーナーの介入が……

戦術変更の犠牲となり、出場機会を失った本田。新システムが定着するようなら本田は再びポジション争いに勝つ必要がある 【Getty Images】

 ところがセードルフ監督は、急にこの戦術を変更する。ダービーでは今までのシステムを放棄し、4−3−1−2へ。3ボランチの一角にはアンドレア・ポーリが入り、本田は先発メンバーから外された。

 5連勝の後、35節(4月26日)のローマ戦に惜敗(0−2)。するとアドリアーノ・ガッリアーニ副会長はセードルフ監督と会談を持った。実はこの急造監督の戦術立案には批判が多く、選手の管理や練習のやり方も含め、選手の間からも不満が漏れているとうわさになっていた。そしてガッリアーニは、オーナーであるシルビオ・ベルルスコーニ氏の希望を反映したクラブからの要望を伝えた。

「なぜ2トップでプレーしないのか。そしてなぜローマ戦でコンディションの出来上がっていない本田を起用させたのか。攻守両面で生かすというなら、ポーリがより適役ではないか」。地元紙によればそんな問いかけがセードルフに対してなされたというが、結果的にダービーでセードルフはその指示に従ったことになる。 

 むろん、ただフロントの言いなりになるだけではなく、彼なりの戦術的な理由も付けていた。インテルの中盤2枚のテクニシャン、エルナネスとマテオ・コバチッチに3ボランチでマンマーク気味にプレッシャーをかけ、他の選手にも守備の際はきっちりとマークに付かせる。そんな守備戦術を志向した結果、本田は戦術選択の犠牲となってしまったのである。

奮闘した長友も組織的な守備に手を焼く

 日本人対決を中心に考えるのであれば、ここは長友に攻撃面で頑張ってもらい、セードルフ監督が本田をベンチから引っ張り出さざるを得ない状況を作ってもらう他はない。ただ先発した長友にとっても、簡単な作業ではなかった。タイトな守備は、サイドにも降り掛かってきたのだ。

「必ず2対1の状況を作られ、1対1をさせてもらえなかった」と彼は言う。対面のSBマッティア・デ・シーリオに引っ掛けようとすると、ポーリが必ず付いて来る。それに加え、パスの出し手にもしっかりプレスが掛かっているのでなかなかチャンスが作れない。前節(4月26日)のナポリ戦ではコバチッチのスルーパス、またはエルナネスのサイドチェンジに反応してスペースへと走っていたが、その根元を削られていた。

 そんな中、前半では少ないチャンスを生かして縦を破っていた。19分、俊足を飛ばして裏のスペースに出てミドルパスに反応。その後タッチライン際でデ・シーリオを軽やかに抜き、ロドリゴ・パラシオが詰めていたのを確認し低いクロスをゴール前に入れる。だがこれはGKクリスティアン・アッビアーティがセーブした。

 45分にはデ・シーリオと1対1になったところを見逃さず、一瞬で間合いを取って置き去りに。サイド深くに進入してマイナスのボールを出すが、これはエリア内にポジションを取るパラシオにも、マウロ・イカルディにも合わなかった。

本田は再びポジション争いに勝つ必要がある

 インテルが、そして長友が攻めあぐねる一方、精力的に組織的な守備を遂行するミランは後半の20分、マリオ・バロテッリのFKからナイジェル・デヨングのヘディングシュートで先制に成功する。その後もセードルフ監督は守備を重視し、交代策もバランスを優先したものとなった。まずは疲れの見えたポーリに代えてサリー・ムンタリを投入し3ボランチを維持。その次は、実質2トップの一角でプレーしていたカカーを下げ、「FWの枚数を削るとかえってけん制にならない」という理由でジャンパオロ・パッツィーニを投入。3枚目のカードも故障したケビン・コンスタンからイグナツィオ・アバーテへの交代にあてられ、結局本田の出番は訪れなかった。
 
「今までたくさん出場させてきたのだから、当然これからも(出場機会は)ある」とセードルフ監督は言う。しかし今後4−3−1−2でチームが固まるようなら、アタッカーの枠は1枚減ることを意味する。本田は再びポジション争いに身をさらさなくてはいけなくなった。一方90分間フル出場した長友も、前半のチャンスに得点を演出できなかった精度の欠落を悔やみ、「練習します」と謙虚に語っていた。

 というわけで第一次ミラノ日本人ダービーはお預けとなったが、実現の際にはより刺激的なマッチアップが展開されるものと期待したい。本田はポジション争いに打ち勝ち、長友は技量をさらに磨いて、互いにさらにレベルアップした状態で当たるはずなのだから。

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著者プロフィール

1973年9月28日、福岡県生まれ。東京外国語大学外国語イタリア語学科卒。97年の留学中にイタリアサッカーの熱狂に巻き込まれ、その後ミラノで就職先を見つけるも頭の中は常にカルチョという生活を送り、2003年から本格的に取材活動を開始。現在はミラノ近郊のサロンノを拠点とし、セリエA、欧州サッカーをウオッチする。『Footballista』『超ワールドサッカー』『週刊サッカーダイジェスト』等に執筆・寄稿。まれに地元メディアからも仕事を請負い、08年5月にはカターニア地元紙『ラ・シチリア』の依頼でU−23日本代表のトゥーロン合宿を取材した。

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