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「下町ボブスレー」が描く次の夢
ソチ不採用を糧―4年後の平昌へ向けて
ソチ五輪で採用されなかった下町ボブスレーの夢は4年後の平昌へと続いていく
ソチ五輪で採用されなかった下町ボブスレーの夢は4年後の平昌へと続いていく【写真は共同】

 ソチ冬季五輪が現地時間7日(以下同)に開幕し、各競技で熱戦が繰り広げられた。マウンテン・クラスターのスライディング・センター・サンキで行われるそり競技は、8日のルージュ・男子シングルスから始まり、スケルトン、ボブスレーへと続いていく。


 そり競技の最後を飾るのがボブスレーとなるわけだが、五輪前に話題となったのが、東京都大田区の町工場が中心となって行った「下町ボブスレー」プロジェクトだろう。元々、フェラーリやBMWといった大手自動車メーカーが製造していたボブスレーのそりを日本の町工場の技術力を駆使して1から作り上げるというプロジェクトは、スポーツ界だけでなく、産業界、経済界からも注目を浴び、書籍やテレビ番組となってその活動が特集されていた。


 しかし、プロジェクト開始から約2年の間で作り上げた3台のそりは、ソチ五輪の舞台を走ることはできなかった。日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟(JBLSF)から「ソチ五輪では使用しない」という不採用の報告があったからだ。


 何故、「メードインジャパン」のそりが、ソチ五輪に出ることができなかったのか?

 その経緯について、大田区産業振興協会で下町ボブスレープロジェクトの主任コーディネーターを務めている小杉聡史さんと、そりの製造に携わった製造技術責任者の大野和明さんに話を聞いた。

カナダでのテストで27項目の修正を要求される

――昨年10月、下町ボブスレー2号機が完成披露された際、そりに乗る日本代表選手たちにも大変好感を得ていたように見えましたが、実際はどうだったのでしょうか?


小杉「その頃は選手の意見を取り入れながら製造を進めていまして、その意見を反映させて完成したのが2号機でした。10月の末にカナダのカルガリーへ遠征された際、2号機のテストをしてもらいました。実際に乗ってみて修正箇所を見つけてもらうのと、そりの国際規格を審査してもらうチェックインというものも一緒にお願いしていました。その際、審査で出されたのが3つの指摘で、それ以外の使い勝手の部分で選手から修正箇所が出てきて、すべてを合わせると27項目が出てきました」


――具体的にどんな修正だったのでしょうか?


小杉「レギュレーション違反と言われたのは、フロントの形状の部分。元々、図で示されていたのですが、『図と同じじゃないとダメ』という話だったのです。文章で示されたものでなかったので、そこは担当者の判断でもあったのですが……。こちらとしては元々そういうことはあるだろうなと分かっていたので、それを早く確かめてもらえるように、チェックしてもらったという意図もありました」


――そのレギュレーション違反を含めた修正箇所は、手間のかかるものだったのですか?


小杉「基本的には軽微なものでしたね。フレームの色を変えてほしいとか、ノーズのサイズを確認してほしいとか。私たちモノづくりとしては、まずは完成品ではなく、バグ出しをして、早く改良点を洗い出しして、そこから、日本にあった3号機を改修して(ソチ五輪に)間に合わせようという話で進めていました」

不採用と聞いて唖然……しかしすぐに再起動へ

――しかし、11月下旬にJBLSFから「使用しない」という連絡が来ました。やはり選手が感じた違和感が大きかったのでしょうか?


小杉「それまで使っていたラトビア製のそりよりも使いづらかったという感覚だったんでしょうね。選手たちも五輪に向けて厳しい戦いをしているところで、私たちも本番の厳しさというものが十分分かっていなかったのかも知れません。


 乗っていただいて、実際に滑らして、修正箇所が出てきた。僕らにとっては当たり前のことで、そこから直して作っていくと。ただ、私たちも選手もそり作りということは今までしたことがなかったので、それがどれだけの作業が必要かというのが見えなかったんだと思います」


大野「僕らもそりをソチまでに何度も何度も直して、3号機を作り上げれば乗ってくれるんだろうという思い込みもあったのかもしれません。ただ僕らはソチまでにグーっと上げていくイメージがあって、どこまでも改善していけると思っていたのですが、選手たちは少し滑らせて、ここもあそこもと問題点が出てきてしまって、不安があったのかもしれませんね。


 ただ、米国やドイツならいくつもコースがあるので、そこで何度も試走させることができるのですが、日本は長野に1つしかコースがなくて、しかも2カ月しか実質滑れないんです。それで12月まで待たないと日本では走れなかったので、カルガリーに持っていったという経緯はありました。期間的な余裕がなく、本当は数年計画でやっていればよかったのですが、ギリギリの中で、モノづくりのスピードでソチに挑戦したかったので、そこが競技側とずれがあったのかなと、個人的には思います」


――実際、製造に携わっていた大野さんは、不採用の話を聞いた時、どんなことを思いましたか?


大野「最初は意味が分からなく、ポカンとしてしまいましたね。ここまでずっと走り続けてきたので。アクセル全開で3号機の改修をして、カルガリーからの情報でこうやって直していこうという話しをして、その直した部品を持っていくという時に(不採用の話を)聞きました。

 ただ、みんな自然と、『ここで終わるわけじゃない』って思っていました。元々、4年後の韓国・平昌(ピョンチャン)五輪まで目指してやっていこうという話をしていましたので。もちろん、呆気には取られましたが、そこでいったんコンセントをばっと抜かれ、パソコンの電源が切れたという感じはありましたが、すぐに再起動して、続けていった感じです」

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