山本隆弘が明かす重圧と戦った現役生活=バレー界けん引したスーパーエースの引退

米虫紀子

ついに引退の時を迎えた山本。多くの栄光で彩られた輝かしいキャリアに幕を閉じた 【坂本清】

 5月6日の黒鷲旗全日本選抜バレーボール大会決勝を最後に、パナソニックパンサーズのオポジット、山本隆弘がユニホームを脱いだ。

 パナソニックでは12年間プレーし、V・プレミアリーグで3度の優勝を経験。2007−08シーズンにはMVPも獲得した。全日本でも約10年間にわたり活躍。アテネ、北京、ロンドンと3度五輪出場に挑戦し、北京では夢の舞台に立った。身長201センチという、日本待望の大型サウスポーだっただけに、周囲の期待は非常に大きく、その分のしかかる重圧も半端なものではなかった。悲願の五輪出場がその左肩にかかっていると言われるほどの極限状態に置かれた時期もあったが、実はその肩はすでにボロボロだったという。

 それでも崩れそうになる体と気持ちを幾度も立て直し、技術を磨いて、34歳まで全日本とパナソニックを支えてきた山本に、現役生活を振り返ってもらった。

けがをきっかけにプロ転向を決意

山本はけがをきっかけにプロになることを決意。厳しい環境に自らを追い込んだ 【坂本清】

――現役最後の試合となった黒鷲旗決勝は、惜しくも敗れて準優勝になりました。最後の試合を終えての心境を聞かせてください

 決勝にふさわしい内容で、どちらが勝ってもおかしくない試合でしたが、勝負どころでパナソニックの方が点数を取りきれませんでした。ただ、僕も含めて、選手、個人個人が出せるパフォーマンスを最大限に出した結果なので、悔いはありません。この試合を真摯(しんし)に受け止めて、来年にしっかりつなげてもらいたいなと思います。試合直後は最後だという実感がなくて、またどこかで練習するんじゃないかなという感じだったんですけど、僕よりも周りの選手の方が(最後だと)感じてくれて、それにもらい泣きしてしまいました。

――12年間の現役生活を振り返っていただきたいのですが、山本選手は04年にプロ宣言されました。プロ選手になろうと思ったのはどうしてですか?

 肩のけががきっかけです。パナソニックに入社したばかりの01年に左肩を痛めて、肩がまったく上がらない状態になりました。肩の名医と言われるドクターのところに行ったら、もう肩のそこらじゅうがおかしくなっているから、すぐに手術だと言われました。でも、手術から選手に復帰した例は今のところまだないと言われて……。

 それは怖いので、手術は避けて、リハビリとトレーニングで治すことを決めました。でも当時は社員として、午前中は会社に出社して、午後から練習という生活。それではその時の自分の体のケアやトレーニングが、万全の状態でできないと感じました。そこで、「もうここまで来たんだったら、バレーボールにかけたらどうか。かけるのであれば、自分を厳しい環境下に置いて、とことん追い込んだ方が、自分をもっと伸ばせるんじゃないか」と自分自身に問いかけました。その思いがすごく強くなったので、会社の方に「プロ制度を作ってください」とお願いして、その無理を聞いていただいて、04年に実現しました。

――ご自身の後にプロになる選手が続いてほしいという思いはありましたか?

 増えてほしいという思いはありますけど、社員より楽だとか、お金がもらえるからと考えてプロになるのは間違っていると思うので、そういう選手はプロにはならないでほしいと僕はずっと思っています。やっぱりプロである以上、自分を厳しい立場に置いて、チームのリーダー格や見本となるような気持ちでやってもらいたいという思いがあります。

けがと戦った現役生活、生まれた創意工夫

――01年に肩を痛めてからは、ずっと肩の痛みと付き合いながらの現役生活だったわけですね。パワーに頼れないからこそ技術が磨かれたのでしょうか?

 まず何より、肩を故障してからは、体にすごくシビアになって、トレーニングや食事の面で、自分を見つめ直しました。次第にどこの筋肉が張ったら肩も悪くなる、と自分で分かるようになって、トレーナーとも具体的な話ができるようになりました。

 打ち方に関しては、いろいろな経験のなかで、ただガムシャラに打てば良いわけではないと学びました。じゃあどうすれば相手が嫌がるのかと考えて、ボールに回転をかけたり、タイミングを変えたりしたことが自分の身になっていったのかなと思います。一定のタイミングで打っていたらブロックもつきやすいので、いいトスがきた時ほどタイミングをずらして、早く打ったり、ちょっと遅らせてみたりしていました。

――サーブも、見た目以上にレシーバーが取りにくいようですが

 この肩ではそれほどスピードサーブは打てないので、そのなかでどうするか。野球に例えれば、直球が120キロしか出なかったら、普通に打たれるじゃないですか。でも、同じスピードでスライダーやシュート、カーブというものを投げ分けることができたら打ち取れる。だからサーブも、同じスイング、ほぼ同じようなスピードで、違った回転をかけながら打っていけば相手は取りづらくなるので、そこを自分の武器にしてやってきました。

――ということは、サーブは何種類もあるということですか?

 そうです。4種類あって、一定の回転ではありません。

――長い間、全日本でもパナソニックでも、オポジットとして攻撃の柱になっていましたが、08年の北京五輪後は同じポジションの清水邦広選手のバックアップや、パナソニックではミドルブロッカーをやったり、今季のリーグでは主にピンチサーバーだったり、さまざまな役割を果たしてきました。オポジットにこだわりもあると思いますが、役割の変化をどのように消化してきたのでしょうか?

 オポジットに対するプライドはすごく強いものがありました。でも、プロでやっている以上、チームにどうやって貢献できるかと考えたら、やはりチームに求められることをやった方が貢献度は上がるのではないかと考えて割り切りました。そこで変にプライドを持ち続けていても……。やっぱり試合に出てなんぼですから。今季のリーグも、確かに出番は少なかったですが、セットに1回は必ず出るという状況だったので、その分は自分のプレーを見せられる。それに、サーブで流れを変えることも可能ですから。

 北京五輪が終わって、一度は引退を考えた時に、「パナソニックに対してまだ何も貢献できていないな」と思ったんです。それからは、いろいろお世話になったこのチームに貢献したいという思いがすごく強かったので、それが大きかったと思います。

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著者プロフィール

大阪府生まれ。大学卒業後、広告会社にコピーライターとして勤務したのち、フリーのライターに。野球、バレーボールを中心に取材を続ける。『Number』(文藝春秋)、『月刊バレーボール』(日本文化出版)、『プロ野球ai』(日刊スポーツ出版社)、『バボちゃんネット』などに執筆。著書に『ブラジルバレーを最強にした「人」と「システム」』(東邦出版)。

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