Jリーグ20年は「変わったことだらけ」=松木安太郎氏が語るJ開幕と将来への提言

宇都宮徹壱

Jリーグ開幕当時はヴェルディ川崎を率いていた松木氏。さまざまな立場から見つめた20年を振り返ってくれた 【宇都宮徹壱】

 Jリーグ最初のシーズンを制した栄誉あるチームはどこか? また、そのチームを率いた監督は誰か? 日本のサッカーファンや関係者であれば、誰もが知る常識中の常識である――と、つい最近まで信じていた。ところがJリーグ開幕から20年が経過し、ちょうどその頃に生を受けた世代がJのピッチ上で活躍し始めるようになった2013年現在、Jリーグが開幕した1993年は「歴史的な出来事」へと変容しつつあるようだ。

 松木安太郎さんといえば視聴者の記憶に深く残るコメントでおなじみのサッカー解説者として、お茶の間では絶大な人気を誇っている。しかし今から20年前のJリーグ黎明(れいめい)期において、最強の強さとまばゆいばかりのタレントを誇ったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を率い、2シーズン連続の優勝に導いたのが、当時35歳の松木監督であったことも決して忘れてはならない。

 そんな松木さんは、解説者としてのステータスを確立した今も、Jリーグに対してはひとかたならぬ愛情とシンパシーを抱いている。今回のインタビューも、多忙を極める中で特別にお時間をいただいて実現の運びとなった。ヴェルディの監督として歴史的な開幕戦を迎えて以降、Jリーグの浮き沈みをさまざまな立場で見守り続けてきた松木さん。あれから丸20年が経過した今、Jリーグに対してどのような思いを抱いているのであろうか。さっそくご本人に直撃してみることにしたい。(取材日:5月10日 インタビュアー:宇都宮徹壱)

20年前、35歳の青年監督の記憶

――今季のJリーグが開幕する直前に、Jリーグキックオフカンファレンスがありました。その際、40人のJリーガーに「イエス/ノー」のクイズをするイベントがあったんですけど、初代Jリーグチャンピオンを率いた監督を認識していたのは14人しかいませんでした

 もう、本当にふざけていますよね! というのは冗談ですが(笑)。先人たちが築いた歴史は大事にしてほしいですね。

――しかも、この時の司会をされていたのが松木さんだったので、私もハラハラしながら見ていたのですが。それにしても今の若い選手が、自分たちのプレーしているリーグの歴史について、もう少し知識や興味があっても良いのではないかと思います

 でも、柿谷曜一朗(セレッソ大阪)だって当時3歳くらいでしょ。柴崎岳(鹿島アントラーズ)なんか、開幕の前年に生まれているわけだから。知らなくても無理もないですよ。

――ではさっそく、Jリーグ開幕当時のお話を伺うことにしたいんですが、20年前というと松木さんは35歳。今でこそJ1でも30代の監督が出てくるようになりましたけど、当時の35歳って格段に若かったですよね

 本当に若かったです。選手の中には年上の人も同期もいましたし(加藤久とラモス瑠偉)。しかも個性派ぞろいのチームを、当時(Jクラブの中で)一番若かった僕が監督として引っ張っていかなければならないということで、それなりにプレッシャーは感じていましたね。

――5月15日の横浜マリノス(現F・マリノス)戦は、Jリーグのオープニングゲームであると同時に、日本サッカーの歴史が変わるまさにビッグイベントだったと思います。試合前のセレモニーをどんな思いでご覧になっていましたか?

 僕は控室のモニターで見ていました。その時に感じたのが「短期間の間に、こんなに世の中変わっちゃうんだな」ということでした。僕は現役時代、プロ(志向の強い)クラブで、プロの選手としてプレーしていて「日本にプロリーグができて、そこでプレーしたい」と思っていました。その後、引退して指導者になったら急激に周りの環境が変化していった。そこには驚きを覚えましたし、急に華やかな環境になったことで勘違いしてしまう若い選手も出てきてしまった。一方で、誰もが「このプロリーグを成功させるんだ」という気持ちで士気を高めていた。それが(J開幕)当時の時代の雰囲気でしたよね。

尋常でなかった過密日程と注目度

――当時のヴェルディといえば、カズ(三浦知良)がいて、ラモスがいて、北澤(豪)がいて、武田修宏がいて、現役日本代表選手を多数擁するスター軍団でした。ある意味「勝って当然」みたいなプレッシャーの中、監督としてもいろいろ苦労されることがあったと思いますが、いかがでしょうか?

 もちろんプレッシャーもありましたが、それ以上に大変だったのが試合日程。3日おきに試合があって移動もあるので、トレーニングも回復を中心としたメニューにせざるをえない状況でした。

――確かに、当時の日程は尋常ではなかったですよね。毎週水曜と土曜にリーグ戦がありましたから。チーム数は10でも、18節を2回やるからリーグ戦だけで36試合。これに加えて、ナビスコカップやチャンピオンシップや天皇杯もありましたからね。しかも当時のヴェルディは超人気クラブでしたから、よみうりランドの練習場の人だかりもすごかったんじゃないですか?

 本当に、ものすごい人でした。それまで読売クラブ時代にも、練習を見学に来てくれる人たちはそれなりにいたけれど、報道陣も含めて一気に増えました。

――そうした過密な日程と注目度の高さという意味で、当時のヴェルディの監督というのは相当な激務だったと思います。20年前のような生活に戻りたいと思いますか?

 いろんな経験をしてきた今なら、躊躇(ちゅうちょ)するかもしれません。やっぱり、勢いとか若さっていうのは大事なんですよ。今、当時と同じことをやれって言われてもできないから。あの時代、現役の選手にとってもチャレンジだったけれど、われわれコーチ陣にとっても、チームのフロントにとっても、相当なチャレンジだったと思います。ひとつの目標に全員で向かっていこう、あるいは何かを変えていこうというエネルギーが、当時のヴェルディにはあった。だからこそ、良い結果につながったんだと思いますね。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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