長友はなぜ左膝の故障を再発させたのか=チームドクターへ募る監督の不信感

神尾光臣

満を持した復帰のはずが……

わずか8分の出場で左膝のけがが再発した長友。なぜチームドクターは出場を許可したのだろうか 【写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ】

 長友佑都が実戦に復帰した14日のカリアリ戦は、最悪の結果に終わってしまった。0−2という試合結果もさることながら、途中出場した長友の左膝が再び故障し、彼はたった8分間で再びベンチへと下がった。

 後半22分の出場直後だ。エステバン・カンビアッソと交代し、4−2−3−1の左MFに入った長友は、左SBのアルバロ・ペレイラからパスを引き出すべくマークを外す動きを仕掛けた。ただその際、対面の右SBガブリエレ・ペリコと接触。その時点で、2月24日のダービーで痛めていた箇所が著しく悪化。長友の動きは目に見えて鈍くなり、アンドレア・ストラマッチョーニ監督はワルテル・サムエルと急いで交代をさせた。そして試合終了後、長友はカンビアッソの肩を借りながら、左足を引きづりピッチを後にした。左膝にがっちりと施されたアイシングが、見るも痛々しかった。

 ペレイラが出場停止になる17日のコッパ・イタリア準決勝ローマ戦の第2レグには復帰をさせようと、チームは慎重に調整させていたはずだった。しかしそれがご破算になるだけなく、「検査の結果次第では手術を選択することもあり得る」とストラマッチョーニ監督は話し、長期離脱の可能性さえ危惧される状況に陥っている。
 そもそも、当初は3週間から1カ月の離脱といわれていたものが、伸びに伸びた末に故障の再発。彼の左膝には、いったい何が起こっていたのだろうか。

疑問が付きまとった復帰時期への見解

「左膝外側半月板の関節包靱帯(じんたい)損傷、および外側半月板関節唇の軽微な放射状断裂」。

 2月27日、検査を経てインテルが発表した長友の症状である。かいつまんで言えば、半月板の軽微な故障だ。半月板とは膝関節のあいだでクッションの働きをし、円滑な運動を助ける部位。運動による負担とともに傷ついて破損し、手術を要する場合もある。サッカー選手が痛めやすい部位でもあり、最近では本田圭佑や森本貴幸が、半月板の故障で手術ならびに戦線離脱を余儀なくされたのも知られた話である。

 だが手術が必要となるのは、半月板に負担が掛かって周辺の軟骨や半月板そのものが破損し、遊離体(編注:関節の骨や軟骨の一部が何らかの原因ではがれ、関節内に遊離したかけらのこと)となって膝に痛みを発症する場合だ。医療スタッフは長友の膝の損傷はそこまでのものではなく、手術は回避できると判断。そして彼らは保存療法を選択したのだ。この際、具体的な復帰時期についてチームは言及しなかったものの、現地メディアは症状などを考え「復帰には3週間から1カ月」と報じていた。その後、長友は1カ月後のユベントス戦(3月30日)に招集されているから、おおむね正しかったと言える。結局ユベントス戦には出場しなかったが、ストラマッチョーニ監督いわく「ミラン戦後の故障から1カ月、彼が練習したのは賞味1回半だ」という状態。コンディションは上がり切っていなかったというだけで、その時点で故障とは関係がなかった。

 ただそこから、ミステリーが発生する。ユベントス戦から4日後、3日のサンプドリア戦に向けたメンバーの中に長友の名前はなかった。練習には参加し続けているはずで、新たに故障をしたという情報もない。サンプドリア戦は本来3月17日に予定されていたものが延期されたものだったため、監督の記者会見は行われず、メンバー外の理由は試合後に尋ねる他はない。するとストラマッチョーニ監督はこんなことを口にした。

「前日の火曜日の時点で医療スタッフから『まだ彼は試合に出せる状態ではないので、待って欲しい』と進言があり、招集を思いとどまった」
 まだ患部に違和感が残っていたということである。

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著者プロフィール

1973年9月28日、福岡県生まれ。東京外国語大学外国語イタリア語学科卒。97年の留学中にイタリアサッカーの熱狂に巻き込まれ、その後ミラノで就職先を見つけるも頭の中は常にカルチョという生活を送り、2003年から本格的に取材活動を開始。現在はミラノ近郊のサロンノを拠点とし、セリエA、欧州サッカーをウオッチする。『Footballista』『超ワールドサッカー』『週刊サッカーダイジェスト』等に執筆・寄稿。まれに地元メディアからも仕事を請負い、08年5月にはカターニア地元紙『ラ・シチリア』の依頼でU−23日本代表のトゥーロン合宿を取材した。

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