日本初の双子メダリスト湯元兄弟 “兄弟げんか”は引き分けに=レスリング

増渕由気子

日本初の双子メダリストとなった健一と進一

フリースタイル55キロ級で銅メダルを獲得した湯元進一は、兄・健一とともに日本初の双子メダリストとなった 【Getty Images】

 双子の明暗が分かれた――。男子レスリングの金メダル候補、史上初めて双子で五輪に出場した男子フリースタイル55キロ級の湯元進一(自衛隊)、同60キロ級の湯元健一(ALSOK)。双子そろっての活躍が期待されたが、メダルを取ったのは双子の弟、進一のみで、二人の明暗が分かれる結果となってしまった。

 北京五輪で銅メダルを獲得し、連続メダルがかかっていた健一は、3回戦で19歳のアゼルバイジャンの新鋭・トグラル・アスガロフにフルピリオドの末に敗れ、敗者復活戦に回る。1つ勝って迎えた3位決定戦では、5月のW杯(東京)で黒星をつけられているコールマン・スコット(米国)に1−2で敗れて、メダルを逃した。

 北京五輪時は兄・健一のみが五輪代表になり、初出場で銅メダル。弟・進一は国内予選で敗退し、代表入りはならなかった。今回のロンドン五輪は進一が銅メダルで、健一はメダルなし。勝利の女神は、今大会も両方いっぺんに微笑んではくれなかった。会場で見守った父・鉄矢さんは、悔しさいっぱいのコメントを連発したが、最後にはこう言った。「兄弟仲良く銅メダル1個ずつで、良かったのでは」。湯元兄弟もそれぞれ、「2人で五輪に出られて幸せ」(進一)「二人して、自分のレスリングができたので十分です」(健一)。メダルとは別の満足感があったようだ。

 同時にメダルこそできなかったが、進一がメダルを取った時点で、湯元兄弟は歴史にその名を刻んだ。日本勢史上初の快挙、双子でメダリストになったのだ。
 1980年モスクワ、84年ロサンゼルス五輪のマラソン男子の宗茂、宗猛。98年長野五輪のノルディックスキー複合で荻原健司、荻原次晴ら過去に双子で五輪に出場した例があるが、メダルをともに取ったのは初めてだ。

 湯元兄弟は和歌山県出身、高校まで地元で育ち、県立和歌山工業高を卒業すると、進一は拓殖大に、健一は日体大に進学。どちらも大学入学時から頭角を現し、進一は1年生で全日本大学グレコローマン選手権で優勝。健一は大学3年で世界選手権に出場と、日本のお家芸であるレスリングのホープとして注目を集めつつあった。このまままっすぐ両者ともに強くなっていくのだが、そこには若干の時差が生じてくるのだった。

北京五輪には健一のみ出場 双子での出場を逃す

4年前の北京五輪のフリースタイル60キロ級で、銅メダルを獲得した健一。北京五輪には健一のみが出場した 【Getty Images】

 前述のとおり、進一は学生界でトップを取った時、すでに兄の健一は、全日本のトップになり、北京五輪代表の有力候補に躍り出ていた。レスリングは階級が違えば、その時によって層の厚さや勢力図が全く異なる。アテネ五輪後から北京五輪に向けての当時の60キロ級には、健一のような若い勢力が多く、2005年の全日本選手権は湯元が初優勝を遂げ、07年は日大の3年生だった高塚紀之(06年世界選手権3位)が優勝するなど、学生中心の階級だった。

 対照的に55キロ級は、04年アテネ五輪で銅メダルを取った田南部力が引退し、エースの座についたのは、北京五輪で銀メダルを獲得する松永共広(北京五輪時=28歳)。その松永を脅かすのも、進一ら学生ではなく、松永と同級生の田岡秀規(06年世界選手権代表)だった。この2強に進一は割って入ることはできず、成績上、兄の健一と差を広げられていた。

 07年春に大学を卒業し、進一は自衛隊に進み、兄は日体大の助手となり、レスリング史上初、双子でプロ選手になった。としてともに抜群の環境を手に入れたが、結局北京五輪は健一しか出場できなかった。

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著者プロフィール

栃木県宇都宮市出身。作新学院高〜青山学院大・文学部史学科卒業。高校まで剣道部に所属し、段位は2段。趣味は、高校野球観戦弾丸ツアーと、箱根駅伝で母校の旗を携えての追っかけ観戦

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