“違い”をつくった清武のパスセンス=U−23日本 3−0 U−23エジプト

大住良之

タイミングを逃さない繊細なパス

東の負傷交代に際し、酒井高を投入した関塚監督(写真)のさい配は、理にかなったものだった 【Getty Images】

 勝因をひとつのプレーに帰することはできない。しかしエジプトと日本の決定的な「違い」をつくったのは誰だったのか、どのプレーだったのかは、明確に言うことができる。
 エジプトのDFサミルをレッドカードに追いやった日本の攻撃の起点になったのも清武だった。前半41分、右サイドでの清武の巧妙なパスが、パスコースがなかったはずのMF東慶悟(大宮アルディージャ)に通り、その東からのパスを受けて突破しようとした齋藤学(横浜F・マリノス)が倒されてサミルが退場処分を受けることになったのだ。

 そして10人になった相手を攻めあぐねていた日本に待望の2点目をもたらしたのは、やはり清武のFKだった。

 後半33分、大津祐樹へのファウルで得たペナルティーエリア右外からのFK。吉田がマークを外してニアポストに走った瞬間に清武がキック。低いボールは吸い込まれるように吉田の走るコースに落ち、吉田の頭から放たれたシュートが待望の2点目となった。この1点で日本の勝利はほぼ決まった。

 この大会で清武は左CKを任されているが、ホンジュラス戦の前半44分には、得点には至らなかったものの正確無比なキックを走り込んだ吉田の頭にぴたりと合わせた。走る選手の頭にぴたりとボールを合わせるFKやCKには清武独特の感覚があり、それがこの日も先制点と2点目に結びついた。

 さらにDFヘガジが左太もも裏を痛めて退場し、エジプトが9人になってしまった直後の後半38分、日本は左サイドのFKを扇原貴宏(C大阪)が短く清武につなぐと、清武はシンプルに、そして効果的に扇原に戻し、扇原のクロスからFW大津祐樹(メンヘングラッドバッハ)の3点目(ヘディングシュート)が生まれた。ここでも清武はからんでいる。

 前半14分の先制のシュートを放った直後に永井がエジプトDFヘガジーから体当たりを受け、腰を打って齋藤との交代を余儀なくされた。そして1点を取ったこともあってか、日本はここから積極性を欠くようになり、エジプトに押し込まれる時間が続いた。しかし後半、日本がエース永井を失った痛手を感じさせなかった最大の要因は清武の存在にあった。清武のタイミングを逃さない繊細なパスこそ、この日の日本にあってエジプトにないものだった。

理にかなっていた関塚監督のさい配

 関塚隆監督のさい配についても触れておきたい。

 後半19分に東が足を痛めた。治療を受けていったんはピッチに戻った東だったが、結局7分後に交代を余儀なくされた。そして関塚監督が「トップ下」の東に代えて送り込んだのはDF酒井高徳(シュツットガルト)だった。

 11人対10人とはいえ、試合はまだ1−0だった。攻撃陣の控えで残っているのはMF宇佐見貴史(ホッフェンハイム)とFW杉本健勇(C大阪)の2人だけ。この2人は攻撃面ではいいものをもっているが、このチームの組織的な守備を万全にこなせるわけではない。前線の守備に穴をつくらないためには、今大会に入って酒井宏樹(ハノーファー96)の負傷で右と左のサイドバックをこなし、酒井宏や徳永悠平(FC東京)に負けないパフォーマンスを見せてきた酒井高しかいない。

 関塚監督の決断は、酒井高を左のMFに入れ、左でプレーしていた齋藤を右に回し、右MFだった清武を東がプレーしていたトップ下に置くことだった。そしてこの手堅さが機能し、前半から日本を悩ませてきたエジプトの右サイドバック、ファティの攻撃参加を抑制する力になった。

 U−23日本代表にとってひとつの「壁」と思われていた準々決勝。永井の負傷というアクシデントはあったものの、チーム一丸の守備はほころびることなくこの試合でも続き、関塚監督のさい配も理にかなっていた。そして清武が「違い」をつくるパスを出し、何事もないかのように「壁」を打ち砕いて3−0の快勝が生まれた。

<了>

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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