集客ワーストからの脱却はなぜ実現したか?<前編>=J2漫遊記 第3回・水戸ホーリーホック

宇都宮徹壱

「Jリーグを目指しているんだから、応援するのは当然」

水戸の歴代ユニホーム。94年に立ち上がったチームは、わずか6年でJ2に到達 【宇都宮徹壱】

 京都戦からおよそ1カ月後の7月20日。スーパーひたちに乗って、私は再び水戸を訪れることにした。最初に取材に応じてくれたのは、株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック代表取締役社長の沼田邦郎である。沼田は水戸出身。家業である株式会社ヌマタ商事の常務取締役を務める一方、88年から水戸市サッカー協会の理事を務めてきた。その後、ホーリーホックの取締役となるものの、前社長の飲酒運転が発覚したため、急きょ社長に就任したのが08年の4月。「とりあえず1年」と思って始めたJクラブの社長業も、気が付けば今年で5年目となっていた。

「なぜ、水戸の入場者数は伸びているのか」――本題に入る前に、まずはこのクラブの成り立ちについて、沼田の証言を交えながら振り返ることにしたい。というのも、水戸が長年集客に苦戦したのは、クラブの前史が色濃く影響しているからである。

 水戸ホーリーホックの前身である、FC水戸が設立されたのは94年。水戸市在住の石山徹なる人物(故人)が、「地域に根差したサッカークラブを作ってJを目指そう」と自ら社長となって立ち上げた。FC水戸は茨城県リーグ3部からスタートしたが、97年になって旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)に昇格したばかりのプリマハムFC土浦を吸収合併する。FC土浦は、おりからの不況のあおりを受けて廃部が決定しており、チーム存続の道を模索していた。県リーグで足踏みしていたFC水戸にしてみれば、まさに渡りに船。FC土浦を吸収合併することで、JFLへの参加資格が得られたからだ。

 当時のJリーグは1部制で、旧JFLは2部に相当する。設立4年目で、いきなりJリーグ入りへの視界が広がったことで、関係者の意気軒昂ぶりは容易に想像できる。しかし周囲の視線は、決して温かいものではなかったようだ。沼田はこう振り返る。

「水戸市の協会とは関係なく、勝手に話が進んでいた感じでしたね。それに、いきなり土浦からクラブを持ってきたわけでしょう。このあたりは、ただでさえよそ者が嫌いな土地柄です。あまりなじみのないチームを持ってきて、本当に根付くんだろうかというのが、正直なところでしたね」

 沼田の記憶によれば、当時の水戸のフロントは、地域に根差すことの重要性をよく理解していなかったようだ。どうすれば自分たちのクラブが地域に受け入れられ、そして市民から愛されるようになるのか、アイデアも発想も極めて乏しかったという。

「つまり『こっちはJリーグを目指しているんだから、応援するのは当然だろう』というスタンスだったんですね。それは市のサッカー協会に対しても同じでした。だから『なんで、あんなやつらを応援しないといけないんだ』という感じになってしまったんですよ。僕らも試合前日の設営で、看板を運んだりライン引きをしたりしていたんですが、試合が終わっても何のお礼もなく、一緒にやろうという雰囲気はなかったですね。それが97年から98年にかけての話です」

プロになりきれないままJ2へ

水戸の沼田社長。水戸市サッカー協会の理事として、クラブの歴史を見つめてきた 【宇都宮徹壱】

 当時の水戸は、地域に愛される存在でも、市民の誰もが知る存在でもなかった。ファンも付かず、行政のサポートも得られず(これについては後述)、スポンサー企業も限られる中、Jを目指す孤独な戦いは3シーズン続いた。

 99年、新たに創設されたJFL(日本フットボールリーグ)において、水戸は3位でシーズンを終える。Jリーグの当時の規定では、昇格の条件は「JFL2位以内」だったが、優勝した横浜FCが「特例参加」であったため、繰り上げによる水戸のJ2昇格が決定。Jリーグが1部・2部制となって以降、初めての参入チームとして、水戸は歴史にその名を刻むこととなる。それにしても、経営基盤も行政との関係がおよそ盤石とは言い難く、水戸市内にJ2仕様のスタジアムがなかった水戸が、よくぞJリーグ参入を認められたものである。この点についての沼田の証言が興味深い。

「結局、サッカーファミリーを増やすことを、当時のJリーグは重視していたと思うんです。チェアマンだった川淵(三郎)さんも『手を挙げた仲間は、できるだけすくいあげよう』という感じだったと思います。つまり、今のJのスタンスとは違う。それが水戸にとって、本当に良かったかどうかは分からないですよ。市民はバラバラ、行政のサポートはない、ましてや市内にはホームスタジアムがなかったわけですから」

 そこに、10年にも及ぶ水戸の停滞の原因があったと、沼田は考えている。それゆえ、08年に社長に就任してからは、行政、株主、スポンサーのもとに出向き、これまでのクラブの非礼を詫び続けたという。当人いわく「ずっとほったらかしだったので、皆さん『やっと来たか』という感じでした。毎日、1時間から1時間半くらい、お説教されるというのが日課でしたね(苦笑)」。そうやってクラブの信頼回復に努める一方、組織の立て直しにも着手。といっても、われわれがイメージする「立て直し」とは、少しばかりレベルが違っていたようだ。

「当時、Jリーグのシニアアドバイサーで、今は東京ヴェルディにいる由井(昌秋)さんという方に来ていただいて、経営やガバナンスやコンプライアンスの整備などをご指導いただきました。そこで初めて就業規則を作ったんです(苦笑)。それまで会社としての体(てい)をなしていなくて、契約書さえなかった。(当時の外国人選手は)みんな日本語がしゃべれましたから、通訳もいませんでしたね。特にビジュなんか日本語ぺらぺらでしたから、あとから来たブラジル人の通訳をやってくれましたよ(笑)。まあ、今も綱渡りだけど、当時からそんな感じでしたね」

<後編へ続く 文中敬称略>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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