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「持っている男」大津祐樹の素顔、努力が生んだ決勝弾

全国から脚光を浴びる存在ではなかった

スペインを撃破するゴールをたたき出した大津。強運を見せつけた
スペインを撃破するゴールをたたき出した大津。強運を見せつけた【Getty Images】

 やはり大津祐樹は強運を持った選手である。五輪前のニュージーランド戦、ベラルーシ戦では好機がありながらチャンスを逸していたにもかかわらず、開幕直前に行われたメキシコ戦での豪快ボレーに続き、なんと本大会初戦ではスペインを撃破するゴールをたたき出し、日本のみならず全世界に衝撃を轟かせたのだから。柏レイソル在籍時からつぶさに大津の成長を見てきた筆者としては、「やはり持っている男は違う」という印象を受けずにはいられなかった。


 茨城県水戸市出身の大津は、小学校4年のときに地元のサッカークラブ・新荘常磐SSSでサッカーを始めた。その後、鹿島アントラーズノルテジュニアユースと並行してマルバ・フットサルスクール水戸に通い、小柄できゃしゃだった大津は、自分よりも体格に勝る選手を上回るため、フットサルのトリッキーなプレーを自身のプレースタイルに取り入れ、足元の技術を磨いた。しかし、鹿島のユースには昇格できず、東京の成立学園高校へ進学してサッカーを続けた。


 高校時代には1年時に冬の選手権出場経験こそあるものの、3年間を通じて全国から脚光を浴びるほどの活躍を見せたわけではない。もちろんJクラブからの誘いはなく、大津は「大学へ進学するつもりでいた」と当時を回顧する。ところが大きなターニングポイントが訪れる。成立学園と柏が行った練習試合で、独特なリズムを刻む大津のプレーが柏のスカウトの目に留まると、以来熱烈なアプローチを受け、2008年の柏加入へと至るのである。


 彼の強運はここで終わらない。08年2月、ジェフユナイテッド千葉とのプレシーズンマッチ、ちばぎんカップ。当時の柏には、フランサ、北嶋秀朗、李忠成というFW陣が在籍しており、普通に考えれば高卒ルーキーの大津が出場する可能性は低いはず。だが、フランサと北嶋は負傷、李は当時のU−23日本代表の招集でこの試合の直前にチームを離れた。こうした偶然が重なり、FWは大津のみという事態が発生した。従って、いきなりスタメンデビューというお鉢が回ってきたのだ。

失意のデビューは“ボスナー・ショック”

 しかし、いくら強運の持ち主とはいえ、それだけで戦い抜けるほどプロの世界は甘いものではない。千葉の屈強なるオーストラリア人DF、エディ・ボスナーの圧倒的なフィジカルコンタクトの前に成すすべを失われ、振り向くことすらさせもらえず、まさにプロの洗礼というべき失意のデビューを味わう。


 この“ボスナー・ショック”は、大津のキャリアを語る上で絶対に避けては通れない。人一倍負けず嫌いの大津は、デビュー戦で味わったこの屈辱を胸に秘め、普段の全体練習終了後には必ず1人グラウンドに残り、黙々とランニングを続けた。さらにフィジカルコンタクトの脆さを克服するため、トレーナーと入念な話し合いを持ち、武器であるスピードと突破力を殺さない自らに見合った肉体改造のプランを立て、積極的に筋トレにも打ち込んだ。ボスナーに手も足も出なかったことが相当悔しかったのだろう。当時、大津は「いつかボスナーを吹き飛ばしたいんです」と心境を吐露している。


 そして、このフィジカル強化は想像以上の効果を生んだ。もともと足元の技術に長け、たぐいまれなサッカーセンスを持っているとあって、少々のフィジカルコンタクトにも動じない肉体を作り上げると、きらびやかなテクニックの“柔”と強靭(きょうじん)なフィジカルの“剛”が劇的な融合を果たし、大津は当然のごとく頭角を現し始めた。09年は、負傷欠場の多いフランサ、サンフレッチェ広島へ移籍した李に代わり、攻撃の柱としてチームをけん引。シーズン中盤戦では田中マルクス闘莉王、内田篤人、安田理大といった日本代表クラスのDFとのマッチアップも対等以上に渡り合うなど、著しい変ぼうを遂げた。


 このシーズン、大津はリーグ・カップを合わせ、公式戦39試合に出場、8ゴールという好成績を残した。しかし、柏は序盤戦のつまずきが大きく響き、最終的にJ2に降格してしまう。

鈴木潤

1972年生まれ、千葉県出身。2002年まで社会人リーグでサッカーを続けた後、フリーライターへと転身。主に柏レイソルを中心に国内ユース年代から海外サッカーまで幅広く取材・執筆活動を行う。現在はJ's GOAL柏担当を務め、『週刊サッカーマガジン』、『週刊サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』などに寄稿。柏のオフィシャルイヤーブック、マッチデープログラムの記事も手掛ける。

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