「持っている男」大津祐樹の素顔、努力が生んだ決勝弾

鈴木潤

努力を証明した因縁の相手との再戦

「チャラ男」は柏在籍時に付けられたニックネームだが、努力家で強運を持ち併せる稀有な存在だ 【Getty Images】

「僕がもっと良いプレーをして、勝利に貢献できていれば降格はしなかった。落としてしまった責任を感じていた」

 本人のこの言葉もさることながら、北嶋や大谷秀和に話を聞けば、大津は18歳にして降格の責任を強く感じていたという。そのため、ほかのJ1クラブから届いたオファーをすべて断り、迷うことなく柏への残留を選んだ。

 翌10年、チームの主軸としてさらなる飛躍が期待されたが、それとは裏腹にけがを繰り返し、不本意な日々を過ごすシーズンとなった。度重なる筋肉系のトラブルが続くと、同年9月には「ブラジルで治療に専念させよう」というネルシーニョ監督の意向もあり、約1カ月間、サンパウロに滞在した。けがを治すとともに、今後けがをしない強靭な肉体を作り上げるため、ブラジルの地で課されたハードな筋トレを行い、復活を期した。

 大津が復活を飾ったのは11年のJ1開幕戦、清水エスパルス戦だ。しかもこの試合でマッチアップしたのが因縁の相手、ボスナーである。だが、この時の大津はもう3年前の彼ではなかった。得意のドリブルでボスナーを手玉に取り、この試合、3−0で柏が勝利を挙げるのだが、ジョルジ・ワグネルによる先制の直接フリーキックは、ゴール前で大津を倒したボスナーのファウルから生まれたものだ。しかも試合終了間際には、大津の突破に対するラフプレーでボスナーはレッドカードをもらい受け、退場処分となった。08年とは異なるこの優劣の逆転は、間違いなく大津が3年をかけて積み上げてきた努力の証明であろう。

海外挑戦、そして代表定着へ

 こうした活躍もあり、関塚隆監督から代表招集の声が掛かる。とはいえ、まだテスト招集の意味合いが強く、主力ではない大津は結果を残さなければすぐに代表メンバーから外された。事実、5月には代表に招集されたものの、6月の五輪アジア2次予選クウェート戦ではメンバーから漏れている。同年代のレベルの高い選手たちから刺激を受け、徐々に海外への挑戦意欲が高まっていた大津にとって、このメンバー落ちが海の向こうへ渡る決心をよりいっそう強めた。

 ただ、いくら選手が「さらなる成長のために環境を変えたい」と一方的に思いをはせたところで、そのタイミングでオファーがなければ移籍は成立しないものだが、大津の運の強さは、同じタイミングでメンヘングラッドバッハのオファーを引き寄せたのだ。また、その移籍交渉も当初は暗礁に乗り上げ、一度は「柏残留が濃厚」となったにもかかわらず、土壇場で事態が一転し、交渉が成立するあたりは、いかにも大津らしい成り行きである。

 そして昨年11月。アジア最終予選を戦うため、大津は約半年ぶりにU−22日本代表に呼ばれた。アウエーのバーレーン戦、そしてホームでのシリア戦と、2試合連続で貴重なゴールを挙げ勝利に大きく貢献し、代表定着を引き寄せた勝負強さは圧巻の一言に尽きる。

 今回のスペイン撃破により、大津祐樹の名は彼のニックネーム「チャラ男」とともに日本中に広く知れ渡った。その「チャラ男」というニックネームは、大津の容姿や、今時の若者らしい言動から柏在籍時にチームメートから名付けられたものであるが、厳密に言えば大津は「チャラ男の皮を被った努力家」であって、同時に強運の星を持った稀有(けう)な存在である。

 柏在籍時の大津のチャントには、次のような歌詞がある。

「大津祐樹を止めないで」

 スペイン撃破の勢いを維持したまま、止まることなく、大津とU−23日本代表にはメダルまでまい進してもらいたい。

<了>

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著者プロフィール

1972年生まれ、千葉県出身。会社員を経て02年にフリーランスへ転身。03年から柏レイソルの取材を始め、現在はクラブ公式の刊行物を執筆する傍ら、各サッカー媒体にも寄稿中。また、14年から自身の責任編集によるウェブマガジン『柏フットボールジャーナル』を立ち上げ、日々の取材で得た情報を発信している。

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