大きな夢に向かって踏み出した第一歩=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第3回

大住良之

試合日程作成も手作業の時代

1993年5月15日、国立競技場で行われたJリーグ開幕戦 【Jリーグフォト(株)】

 ヤマザキナビスコカップが終了しても、立ち止まっている時間などなかった。翌年の春にはJリーグの最初のシーズンが開幕することになっていたからだ。

 ただ、ワールドカップのアジア第1次予選が4月8日から約1カ月間にわたり日本とUAEを舞台に行われることになったため、開幕戦は5月15日(土)とすることにした。
 初めてのリーグ。10チームが2回戦総当たり(全18節)をする「ステージ」を2回行い、それぞれの優勝チームがホーム&アウエーで「チャンピオンシップ」を争うという方式だった。

 だがその日程決定が大変だった。

「順位に従って節ごとの対戦相手を決めていくイングランドのシステムがあったんですよ。それで日程を組んだのですが、スタジアムを押さえられないところが出てきて……。いまはコンピュータにソフトが入っていて、比較的簡単になったのですが、運営を担当していた加賀山(公(ひろし))(現:日本サッカー協会競技運営部部長)を中心に、当時は全部手作業でやっていたので、非常に大変でした」

 当時Jリーグの事務方のまとめ役だった佐々木さんは振り返る。

 しかし何と言っても大変だったのは、5月15日、開幕日に東京で1試合だけ行われることになったヴェルディ川崎(1992年ヤマザキナビスコカップ優勝)対横浜マリノス(1992年天皇杯優勝)の準備だった。

歴史的チケットができるまで

開幕戦のチケットには、応募者の名前が記されている 【Jリーグフォト(株)】

「関心が高まる一方でしたから、開幕戦の入場券販売をどうするかが、大きなテーマでした。そこで販売する全座席を往復はがきによる申し込みで抽選することにしたのです」(佐々木さん)

「前年にヨーロッパに視察に行ったとき、ロンドンのウェンブリースタジアムで入場者の個人名がプリントされているチケットを見せられて、びっくりしました。8万人も入るスタジアムでどうしたらこんなことが可能なのかって……。さらに偽造を防ぐためのホログラムまで入っているんです。その場で、『開幕戦のチケットはこれで行こう!』という意見が出て、帰ってから大日本印刷に相談しました。『技術的には十分できる。しかし抽選から開幕まで2カ月しかなく、その間に当選の通知と支払い案内を出し、入金を確認してから一人ひとりの入場者名を印刷して試合の2週間前までに発送というスケジュールでは不可能』と言われましたね」

「不可能」と言われたが、Jリーグは「公平にするにはそれしかない」と、断行した。

 1通のはがきで4人まで名前を書くことができた。わずか3週間あまりの募集期間で30万6296通もの応募はがきが舞い込んだ。人数にすると80万人! 招待客などを除く約4万席がこの一般応募の対象だった。すなわち「20倍」という狭き門だったことになる。

 3月13日、試合会場・国立競技場のある東京・新宿区の抽選会場で警察官立ち会いのもと厳正に抽選が行われ、幸運な4万人が決定した。

 Jリーグは、当選しなかった応募者にもすべて礼状を出した。「ありがとうございました。残念ながら……」という内容の手紙には、ヴェルディ川崎と横浜マリノスのキャプテンである柱谷哲二と井原正巳のサインが入っていた。

ついにスタート

初代チェアマン川淵三郎による開幕宣言 【Jリーグフォト(株)】

 そして1993年5月15日土曜日、国立競技場は熱狂のなかにあった。

 華やかなオープニングセレモニー。 川淵三郎チェアマンの開会宣言。5万9626人のカウントダウンに続く小幡真一郎主審のキックオフの笛(2012年ヨーロッパ選手権で始まったことではない)。

 そしてヴェルディFWマイヤーの先制点、後半試合をひっくり返したマリノスMFエバートンとFWディアスのゴール。スタンドの熱狂。

 多くの人が夢に見てきた「日本のプロサッカーリーグ」が、ついにスタートを切ったのだ。

 熱狂は開幕戦だけでは終わらなかった。

 土曜日、水曜日と連続する試合の大半が前売りで売り切れになり、地上波各局が争うように中継したテレビ放映も軒並み高い視聴率をあげた。

佐々木さんの奇妙な体験

 開幕翌日の5月16日、佐々木さんがした奇妙な体験は、開幕当時のJリーグがどれほど熱狂と喧噪(けんそう)のなかにあったかをよく伝えるエピソードだ。

 その日、佐々木さんは横浜市の三ツ沢球技場に行った。午後1時キックオフの横浜フリューゲルス対清水エスパルス。前夜、嵐のような雰囲気のなかで開幕戦が終わり、深夜にようやくあとかたづけも済ませた。しかしこの日の試合はホームのフリューゲルスが運営を担当する。佐々木さんに特定の仕事があるわけではなかった。前日は試合を楽しむどころではなかったので、この日はじっくり試合を見ようと思っていた。

 ところがキックオフが近づいたころ、この試合を中継するテレビ神奈川のスタッフが大騒ぎになっているのに気づいた。東京と横浜を結ぶ高速道路で事故があり、解説者がとても間に合わないという。ああでもない、こうでもないとやっているうちに、佐々木さんがそばに立っているのに目を止めたディレクターが一瞬の間を置いて近づいてきた。その血走った目を見て、佐々木さんは不吉なものを感じた。

「一樹さん! お願いします」
「お願いしますって、何を話すんだよ? 何もしゃべれないよ。選手の名前ぐらい知っているけど」
「いいんです。アナウンサーがよく分かっていますから、うんうんと言っていてくれれば……」

 時計を見ると、放送開始まで1分もなかった。考えている暇などない。ディレクターに手を引かれるように、スタンド最上階の放送ブースまで駆け上がった。

 開幕節二日目の試合会場で、Jリーグの事務局長である佐々木さんがしていたことは、奇妙なことに「テレビ中継の解説者」だった。後にその試合のVTRをもらったが、とても見直す気にはなれなかった。何を話したのか、「覚えているわけがない」と、佐々木さんは笑いながら言った。

<第4回に続く>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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