波浪の一週間、浅見国一さんにもう会うことは出来ない=乗峯栄一の「競馬巴投げ!」
え? オレが? 田原成貴を助けたりするの?
10年来の知り合いである矢作調教師がダービー制覇、おめでとう! 【写真:乗峯栄一】
日曜16時、調教助手時代から長い知り合い矢作芳人調教師がダービー・トレーナーになった。えらいことだ。どの調教師も「どうしてもダービーだけは勝てない」と苦心する中、矢作厩舎はポンと跳躍してしまった。どこまで行ってしまうんだろう。おめでとう。
初めて矢作家を訪ねて彼(当時は菅谷厩舎調教助手だった)に会ったのは、ぼくがトレセンに行き始めた92年の秋だった。浜田厩舎調教助手の小林常浩(現ライター・騎手小林慎一郎の父)がスポニチでぼくと同期にコラムを書き始めた、いわば同期生だったので、彼を通して紹介された。
その頃“サンエイサンキュー田原舌禍事件”というのが起きていて、「サンエイサンキューは使いすぎだ、疲れている」と言う田原成貴に対して「そんなこと言っちゃいかんだろう」というスポーツ紙が出てきて、エリザベス女王杯を前にスッタモンダしていた。
そんなとき小林常浩から電話が来て、「乗峯さん(当時はまだ“さん”付けだったと思う)、あんたも田原助けてくれんか」などと依頼を貰う。
え? オレが? トレセン行き出して半年、つまり競馬マスコミに入って半年、素人にちょろっと毛が生えた程度のこのオレが、あの有名人・田原成貴を助けたりするの? 何が何だか分からなかったが、トレセン行くと、小林常浩が「矢作という男のうちに行く。田原もそこに来る。善後策の協議だ」てなことを言う。まるで「倒幕の密議を練る。勤皇の志士たちが集まる。池田屋に行くぞ」という雰囲気だ。一気に緊張する。ひょっとしたら新撰組が現れて全員斬り殺されるかもしれない。
「どうも、肉も食ってる田原です」
「さあ、協議だ。及ばずながら拙者にも少々腹案が」などと、テーブルににじり寄ると、「大体カタがついた。カタはついたが、せっかくだから飲もう」などと田原成貴が言う。「あ、あの、拙者の腹案は……」と言おうにも言う機会もなく、「そりゃまあ、よかったですねえ、ははは」などと意味もない笑いを浮かべる。栗東トレセンの池田屋協議はあっという間に終わった。
「あ、あんたが乗峯さん?」と田原成貴がこっち見て言う。彼と話すのは初めてのことだ。
「あ、はい」とちょこっと頭を下げると、「どうも、肉も食ってる田原です」と言われる。
トレセン行き始めた初期の頃、「武豊の第一印象“野菜食ってる”。ちなみに田原成貴の第一印象“肉も食ってる”」とスポニチコラムに書いたのだが、田原成貴、そのコラムを読んでいたのだ。あ、痛っー! ああいいうものは騎手本人というのは読まないものと思っていたが、うーん、読んだりするんだと、しばらく頭を上げられなかった。
矢作調教師のダービー制覇めでたいが、しかし……
ダービー馬・ディープブリランテ。鞍上岩田康誠、引っ張っているのは担当の貝澤厩務員。2月、共同通信杯の週の撮影 【写真:乗峯栄一】
矢作助手のお父さんは大井の有名調教師で、つまり彼も大井競馬場で育った訳だが、高校生の頃から競輪ファンであちこちの競輪場を回っては選手のサインを集めていたらしい。(ぼくが知っている限り、南井克巳調教師、矢作調教師、日吉厩舎・小川雅之厩務員が“トレセン競輪ファン三傑”のように思う)
それから近畿各競輪場(いまはもうほとんどが閉鎖の憂き目にあっているが)はもちろん、函館、青森、松戸、名古屋、小倉など、色んな競輪場を案内してもらい、また競輪選手も多く紹介してもらった。北海道競馬の厩舎に陣中見舞いに行くと、小林常浩と一緒に札幌すすきのや、函館五稜郭を連れて回ってくれた。
あの頃の合い言葉は「お前カネないか? オレもない」だった。あれから10年余り、もう遠い昔になった。いまや、ダービー・トレーナー。「お前カネないか、オレはある」となった。
めでたい。めでたいがしかし、ちょっと寂しいところもある。