「夢」を実現した軌跡をたどる=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第1回

大住良之

日本サッカーリーグ20周年、「自主運営」から「プロ」へ

プロリーグ設立が正式に決定して以降は忙しさが格段に増し、「無我夢中だった」と佐々木氏は当時を振り返る 【宇都宮徹壱】

 日本サッカーリーグは1982年に「自主運営」をスタート。それまではホームもアウエーもなく、リーグが試合会場を準備し、運営していた。チームは試合をしに行くだけでよかった。しかしこの年から、すべての試合をホームチームが運営することになった。入場券の発行、販売もしなければならない。マネジャーの仕事は格段に忙しくなった。

 1984年、20周年を迎えた日本サッカーリーグは大々的なキャンペーンを企画。日産から「運営委員」としてリーグ運営にかかわっていた佐々木さんも奮闘した。
「2部の常任運営委員だったころに、総務主事だった芳賀研二さん(田辺製薬)に仕事の進め方、書類のつくり方などを徹底的に鍛えられました。2部は2部で独自に表彰式をするなど、なんとか盛り上げようと必死にやっていましたからね。それが役立ちました」

 そして日本サッカーリーグは「第一次活性化委員会」(1988年3月から6回開催)でプロリーグ設立を正式に検討することを決定、同じ年の10月に「第二次活性化委員会」をスタートする。総務主事に川淵三郎さん(初代Jリーグチェアマン、現:日本サッカー協会名誉会長)が就任し、佐々木さんは日本サッカー協会(JFA)に出向、日本サッカーリーグの事務局長となる。佐々木さんが37歳を迎えたときだった。
「日産のほうは、中村勝則(現:横浜マリノス取締役兼ホームタウン・ふれあい本部本部長)、鈴木徳昭(JFA、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会出向中)といった後輩のマネジャーも育ってきていました。『プロになるのだから、いっしょにやってこい』と、加茂監督に言われて、引き受けることにしました」

 それから1993年の開幕までは走りっぱなしだった。89年3月に「プロリーグ設立準備室」が設立され、そこでも事務局長に。
「何もないところからリーグ規約をつくらなければならなかったので、ドイツのブンデスリーガの規約を参考にするなど、無我夢中でしたね。規約自体の書き下ろしは、当時、博報堂の小竹伸幸さん、弁護士の池田正利さんといった法律の専門家にお願いしたのですが、プロには何が必要か、世間に何を訴えなければならないのかなど、事務局みんなでアイデアを出さなければなりませんでした」

「日本リーグ時代には、すべてのお金を会社から出してもらってチームを運営し、試合を開催していたのだから、観客が入ろうと入るまいと、テレビ放送があろうとあるまいとどちらでもよかった。しかしプロになったら、基本的にはかかる費用を自分たちで稼ぎ出さなければならない。運営サイドも、チーム・選手も、とにかく全員が考え方を大幅に変えなければならない時期だったと思います」

「ホームタウン」の誕生、自分たちの「言葉」へのこだわり

 こだわったのは「言葉」だ。
 たとえば「ホームタウン」。当初は「フランチャイズ」と呼ばれていたが、これは興行権などの商的な権益圏を意味する言葉。「本拠地」と改めたが、まだしっくりこない。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の末、「ホームタウン」という言葉が出てようやく落ち着いた。

 その後、リーグ開始後数年してまとめられた「Jリーグ百年構想」の理念を考えるうえでも、「ホームタウン」という表現を採用したことは大きな意味をもっていたのではないか。
「言葉にこだわろうと言ったのは、川淵三郎チェアマンでした。『チェアマン』という呼称自体、こだわり抜いた結果でしたね。ボビー・チャールトン(元イングランド代表)さんにまで『どうだろう?』と質問して、『いいんじゃないか』と言われて、ほっとしていました」

「しかしいちばん最初にこだわったのは、『プロサッカーリーグ』という社団法人の正式な名前でした。文部省(当時)が『カタカナの法人名など前例がない』と許可を出してくれなかったのです。プロ野球は『機構』ですからね。『わたしたちはサッカーリーグなんです』と粘り強くお願いして、ようやく認めてもらえました。公益法人で『リーグ』と名乗ったのは、Jリーグが初めてでした」

「Jリーグ」という愛称は、当初、リーグ創設の手伝いをしていた博報堂の社内の「開発コードネーム」だったという。たくさんの案のなかに加えた「Jリーグ」の名を、川淵チェアマンがひと目で気に入り、採用に至った。
 1991年7月1日、「Jリーグ」の名前とマークが発表され、11月1日には「社団法人日本プロサッカーリーグ」設立。佐々木さんは初代事務局長に就任した。

<第2回に続く>

 本コラムは、2012年12月まで毎月1回掲載する予定です。次回は6月下旬を予定しています。
佐々木一樹
(株)Jリーグエンタープライズ/Jリーグフォト(株) 代表取締役社長。1951年8月31日兵庫県生まれ。関西学院高等部、関西学院大学在籍時にサッカー部のマネジャーとして活動。大学在籍時には関西学生サッカー連盟の委員長も務め、大学サッカーリーグの運営に携わる。
1974年3月関西学院大学卒業後、同4月に日産自動車株式会社入社。社業と平行してマネジャーとしてチームを支える。
1988年9月財団法人日本サッカー協会に出向。日本サッカーリーグ事務局長に就任しプロサッカーリーグ設立を前提に活動。
1989年3月財団法人日本サッカー協会「プロリーグ設立準備室」設立とともに準備室事務局長に就任。
1991年11月に法人化した社団法人日本プロサッカーリーグ設立事務局長就任の後、12月末に日産自動車株式会社を退社。
1992年1月社団法人日本プロサッカーリーグに正式に入局し、以降プロサッカーリーグの開幕に向けて奔走する。
1992年4月より広報室長をつとめ、以降広報部門の責任者として各役職を歴任。1995年4月に事務局次長就任、1997年4月に事務局長に就任する。2002年7月より理事をつとめ、2006年7月には常務理事に就任。2012年3月まで同職を全うする。同時に財団法人日本サッカー協会理事、天皇杯実施委員会委員長、施設委員長などを歴任。2010年6月から現職。

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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