「夢」を実現した軌跡をたどる=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第1回
創設前からJリーグを「裏方」として支えてきた佐々木氏(右)が20年の歴史を振り返った(左は聞き手の大住氏) 【宇都宮徹壱】
それは日本という国にとって、右肩上がりで続いた怖いもの知らずの経済成長の時代が終わり、いくつもの困難を経て「質的な変革」を迫られた20年間だった。そしてその時期に日本全国でスポーツ環境の改善が飛躍的に進んだことは、Jリーグの存在、そしてその理念に基づいた積極的な活動と無関係ではない。いや、そのけん引役となったものこそ、Jリーグだった。
サッカーの面でも、1968年のメキシコオリンピックから20年以上も世界の舞台に立つことができなかった状況から、アジアカップで4回優勝、FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ4回連続出場、うち2回はベスト16と、世界に認められる存在に急成長した。
8府県10クラブから始まったJリーグは、2012年には29都道府県40クラブに拡大、それぞれのホームタウンで不可欠な存在となって地域の人びとに喜びや生きがいを与えている。
そのJリーグを創設前から一貫して「裏方」として支えてきたのが、佐々木一樹さんだ。「プロリーグ設立準備室」事務局長からJリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場でリーグ運営に当たり、現在はJリーグエンタープライズ代表取締役社長。
Jリーグ20周年企画として、佐々木さんが語る「Jリーグ裏面史」(といってもどろどろした話ではない)を、これから8回にわたってお届けする。
サッカー少年ではなかった、学生時代から「裏方」ひとすじ
「市立の生田中学(現在の神戸生田中学)というところだったのですが、サッカー部はなかった。放送部でした。『サッカー少年』なんかではなかった」
関西学院高等部に進学後は、中学生時代から興味のあったバスケットボール部に入ったが、半年で退部、以後は部活動から離れていた。
転機は高校3年。同じクラスにサッカー部でキャプテンになった者がいて、マネジャー不在で困っていた。「手伝ってくれないか」との一言に、気軽に「いいよ」と応じた。
「マネジャーと言っても、お茶を用意したり、いわば雑用。でもGK練習でボールをけったりもしました。広いところでボールをけることができて、仲間がいて、それがとても楽しかったですね」
翌年、関西学院大学に進学。ここでもサッカー部には興味はなかったが、秋になって先輩から「ぶらぶらしているなら、やってくれ」と頼まれ、マネジャーとなった。そこからは、サッカーの「裏方」人生まっしぐらだった。
関西学院大学は関西学生サッカー界の名門。佐々木さんは3年生のときに関西学生サッカー連盟の運営にたずさわるようになり、4年生で委員長に。
「当時、関西の学生サッカーは大阪商業大学の上田亮三郎監督が音頭をとって、関東に負けないようにしようと頑張っておられました。大阪体育大学の坂本康博監督、同志社大学の古川勝巳監督が中心になって資金を集めてくださり、それをもとにいろいろな企画をたてました」
メディアの人びととのつきあい、後援企業や用具メーカーとの折衝もそのころからのものだった。当時の関西には、大谷四郎さん(朝日新聞)や賀川浩さん(サンケイスポーツ)を筆頭にそうそうたるサッカー記者がそろっていた。
日産への入社、「総合スポーツクラブ」への夢
日産の監督は加茂周さん(後に日本代表監督)。関学の先輩だった。その弟で、やはり関学OBの加茂建さん(加茂商事代表取締役)が始めたサッカーショップで、佐々木さんは学生時代にアルバイトをしていた。
まだ神奈川県リーグにいた日産のサッカー部だったが、加茂周さんは日本を代表するチームにしたいと考えていた。そのためには選手を鍛えるだけでは十分ではない。運営、マネジメントが大事であることを、当時から意識していた。だが「選手上がり」をマネジャーにする気はなかった。そこで弟から推薦された佐々木さんに声をかけたのだ。
日産のサッカー部長だった安達二郎さんと会って、夢が生まれた。
「当時日産は伊豆に広大な土地をもっていたので、そこにスポーツ総合レジャー施設をつくりたいという構想があると聞かされました。野球や卓球といったすでに強かったスポーツに加え、サッカーを強化してクラブとしてやっていきたい、そのために力を貸してほしいと言われました。総合スポーツクラブっていうのかな、面白そうだなと思いましたね」
入社は1974年。最初は会社というものを知るためにと人事部に配属され、採用、福利厚生などの仕事をした。3年ほどしてサッカー部の仕事に専念するようになった。
日産は関東リーグから日本サッカーリーグ2部を経て1部に昇格し、いちど2部に落ちたが再度上がると強豪のひとつとなった。