沖縄の人たちの心をつないだ八重山開催 日本最南端で初めてのプロリーグ公式戦=bjリーグ
日本列島を大寒波が襲う中、この日の石垣島の気温は21度。カンヒザクラの花が咲き、春の訪れさえ予感させるこの島で、地域スポーツの新たな可能性が芽吹いていた。
「沖縄は離島を含めて沖縄」
八重山開催に尽力した琉球のフロント・安永淳一氏(写真左)と八重山バスケット協会の理事長・譜久嶺靖氏 【河合麗子】
しかし、沖縄本島と石垣島の間には海を隔てて約400キロの距離があった。その距離は台湾と石垣の間270キロより遠い。同じ沖縄県であっても、独自の文化を形成してきた八重山(石垣市八重山郡竹富町と与那国町を差す)では、時に沖縄“本島”の人を「沖縄の人」と呼ぶことがある。自分たちは「八重山の人」であって、琉球は“八重山のチーム”ではなく、石垣市在住20代女性の言葉を借りれば「テレビで見る遠い存在」であった。
球団創設当時、琉球のフロントである安永淳一氏は、沖縄バスケット協会からこう伝えられていた。『沖縄は離島を含めて沖縄』だと。真の沖縄のチームとなるために、離島での試合開催はチームの命題だった。
bjリーグは華やかな照明やBGMなど、勝敗だけでなくエンターテインメント性も重視する“ショーバスケ”が魅力の1つである。試合に必要な機材はトレーラー5台、コンテナ2本、トラック2台分。安永が「まるで移動サーカスのよう」と語るほどの大掛かりな荷物を八重山まで運ぶ必要があった。運搬費だけでも何百万円もの予算を必要とし、スタッフも選手を合わせて100人ほどが必要となる。もしかしたら、選手だけが海を渡って試合をしていれば離島開催はもっと早くに実現していたかもしれない。しかし、チームには譲れないこだわりがあった。
「ぼくにとってプロの試合っていうのは、勝っても負けても、チケットを買ってくれた人に『楽しかった、また行きたい』と感じてもらうこと。琉球が作る“非日常で異空間”の本物の試合は石垣でもやろうと思えばやれる」と安永。チーム創設から5年、人気も安定し、会社としても力をつけた。琉球はいよいよ離島開催に挑戦するときを迎えた。
もう一つの命題と“地元密着”という考え方
試合の準備をする地元の中学生たち 【河合麗子】
今回試合の開催地は石垣島であり、竹富町とともに譜久嶺はチームに「普段は13時開催の日曜日の試合を12時半に早めてもらえないか」という提案をした。波照間島(竹富町)は石垣島から船で1時間の距離にあり、最終便は15時半だった。13時開催では波照間の子どもたちは日曜日の試合を観て船で帰ることが厳しくなる。こうしてチームは異例の12時半開催を決めた。
広報や会場設営にも、地元ならではの努力や工夫を凝らした。大会2週間前から島を走った手作りの広報車、ドライバーを務めたのはお土産屋の店主、MCは地元ホテルの営業マンだ。天井を含め、窓ガラスの多かった石垣市総合体育館、試合直前に暗転する演出を持つチームにはここから入る外光が邪魔だった。大会5日前、多くのボランティアが集まり、農家で使うビニールハウス用の黒ビニールシートでこの窓をふさいだ。そして大会当日、地元バスケ部の父母会が会場のパイプ椅子を運び、専用コートは中学生たちも一緒になって敷いた。
準備に関わった市民ボランティアは約150人。こうしてでき上がった手作りの会場に、フロントの安永はほんの少しプロのエッセンスを加えた。「普段は1階の体育館の入口を2階に変えよう」。入口から見下ろすプロ仕様の会場、“非日常・異空間”から生まれる感動が試合前から演出された。会場はチケット完売の満席、多くの立ち見客も集まり、訪れた観客は「いつもの体育館じゃない、テレビで見るコートがここにある」と感動を口にした。石垣総合体育館に、いつもどおりの華やかなBGMと照明。選手入場の際に沸き立つ会場に“地元密着”の成功例を見た。