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「無名」の存在から覚醒した田中順也
柏をけん引するアタッカーの魅力

「順也の魅力はシュートの積極性」

ネルシーニョ監督も「魅力はシュートの積極性」と語る田中は日本人に少ないシュータータイプのアタッカーだ
ネルシーニョ監督も「魅力はシュートの積極性」と語る田中は日本人に少ないシュータータイプのアタッカーだ【Getty Images】

“彗星(すいせい)のごとく現れた”というありきたりな表現が当てはまるのかもしれない。2007年にカナダで開催されたU−20ワールドカップの日本代表、いわゆる“調子乗り世代”と同じ1987年生まれだが、一度たりとも年代別の日本代表の招集を受けた経験はない。自嘲(じちょう)気味に語る本人の言葉を借りれば「無名」の存在だった。だが、そんな彼が今シーズンのJ1でゴールを量産(7/10時点で8得点、得点ランキングで2位)し、首位の柏をけん引するとともに、アルベルト・ザッケローニ監督から熱い視線を受けているのである。


 田中順也は、日本人に少ないシュータータイプのアタッカーである。ネルシーニョ監督が「順也の魅力はシュートの積極性」と語るように、少々遠めの位置からでもコースを見いだしたなら、その左足から重く鋭い弾道を放つ。中学時代から三菱養和SCユースに所属し、同ユース時代にはアドリアーノ(現コリンチャンス)のプレーをイメージしながら練習に取り組み、グイグイと力強いドリブルで切り込んでは左足元にボールを置いて、ドカン!と豪快なシュートを放つプレースタイルを確立した。田中が“三菱養和のアドリアーノ”と言われたゆえんはそこにある。


 だが、当時の田中は三菱養和で10番を背負ってエースの座に君臨していたとはいえ、全国的に見れば突出した選手ではなかった。香川真司、安田理大、槙野智章、吉田麻也らそうそうたる顔ぶれが集まった05年の日本クラブユースサッカー選手権(U−18)には出場するも、あえなくグループリーグ敗退を喫した。Jクラブからの誘いはおろか、サッカー名門大学からの推薦もなく、結局、田中は一般入試で順天堂大学を受験した。

転機となった順天堂大学への進学

 その後、関東大学リーグでゴールを量産したわけでも、ユニバーシアード日本代表に選出されたわけでもないが、この順大への進学が田中にとって1つの転機になったのは間違いない。というのも、田中の順大時代の2学年先輩にあたる村上佑介を視察するために訪れていた柏レイソルのスカウトが、順大の試合や練習に頻繁に足を運び、そこでひときわ強烈な左足シュートを放つ田中の存在に目を引かれ、柏の練習参加に誘ったからだ。意外なところでプロへの門戸が開かれた。


 09年シーズンの開幕前、柏の春季キャンプに参加した田中は、7月から特別指定選手として柏に加入することが決まった。当時の柏は残留争いの渦中にあり、監督交代劇を余儀なくされていたことも、今になって思えば田中にとってプラスの作用が働いた。田中の特別指定と時を同じくして、ネルシーニョ監督が柏の指揮官に就任したのだ。


 事あるごとにネルシーニョは「良いプレーに“若い”などということは関係ない。わたしは良い選手であれば、若くても迷わず起用する」と持論を述べる。通常で考えれば、“ありえない”起用だった。いくら調子が上がらないとはいえ、フランサ(10年7月に退団)や李忠成(現サンフレッチェ広島)という十分なキャリアを持つチームの主力を差し置いて、ネルシーニョは全く無名の現役大学生をスタメンに抜てきしたのである。当時、柏を取材する記者たちの間では、当然驚きの声が上がった。ただ、百戦錬磨の智将には、すでに田中の体の奥底に秘められていた資質が目に映っていたのだろう。さらに、ネルシーニョの強い希望により、当初は1カ月と予定されていた特別指定の期間は、順大側の理解もあってシーズン終了までに延期された。

鈴木潤

1972年生まれ、千葉県出身。2002年まで社会人リーグでサッカーを続けた後、フリーライターへと転身。主に柏レイソルを中心に国内ユース年代から海外サッカーまで幅広く取材・執筆活動を行う。現在はJ's GOAL柏担当を務め、『週刊サッカーマガジン』、『週刊サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』などに寄稿。柏のオフィシャルイヤーブック、マッチデープログラムの記事も手掛ける。

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