格闘家、その引き際

t.SAKUMA
 格闘家にとって、引き際は最も難しい問題の一つだ。個人での戦いであるが故に、強制的に出場を拒否されることは少ない。また、格闘技はタイムを競うわけではないので、自分の実力を客観視もしづらい。
 かつて、昭和の大横綱・千代の富士貢が「体力の限界」と引退を表明したときは、惜しまれつつもファンには納得のいくものでもあった。しかし、このように本人が限界を感じ、また、ファンも納得のいく引退というのは、格闘家には少ないように思う。
 一人の選手の戦いを長期間見ていると、全盛期を知るものにとっては、現在の実力があきらかに以前より劣っていると感じられる場合も多くある。しかし、それを知ってか知らずか、それでも戦い続ける選手がいる。
 選手自身が自分の実力の衰えを理解して闘っている場合もあるだろうが、理解することなく全盛期のイメージを引きずりながら戦っている場合もあるのではないだろうか。そのような場合、ファンにとっては、その姿に痛々しさすら感じる。

 自尊心が人一倍高いであろうトップ選手にとっては、衰えを自ら認めることは、なかなか困難だろう。選手が作り上げた全盛期のイメージは、その選手が頂点を極めるはるか以前から、選手の中で長年にわたり培われてきたものであり、ファンが短時間で目に焼き付けたのとは訳が違う。しかし、かと言って、短時間でファンが目に焼き付けた印象が違っているわけでもなく、詳しくない人間が見ても、現在の動きがあきらかに全盛期とは違うということがわかる選手もいる。

 自分の限界を全て引き出し、結果も頂点を極めることができたのなら引退も決断しやすいだろう。しかし、そのような選手はこの業界ではほとんどいない。大方の選手が、自分にはまだ引き出されていない才能があると思い、自分の限界はもっと上にあると信じている。もしくは、自分には才能がないものと思い、早々とリングを降りていく選手がほとんどだ。
 どんなに素晴らしい結果を出した選手でも、また結果を出していない選手でも、本人の思いとは反対に、いつか体力は下降線をたどることになる。それでも、選手は現実を受け入れることはできない。なぜなら、これまでも受け入れてこなかったからこそ、その選手はその地位まで上り詰めることができたわけで、自分の実力の退化をすんなり受け入れられるような選手は、最初から強くなることなどはできない。
 そのようなトップ選手の気持ちの強さは、強くなる過程においては重要であったが、引き際を考える時には、現状を客観視することができない要因の一つにもなる。
 現WBC世界チャンピオンの内藤大助は「自分一人だけなら、とっくにやめている」と語り、今でも戦い続けることができるのは周りの人達のためだと語る。応援してくれる多くの人達へ戦うことによって恩を返していく。人気選手になると、このように考えて戦うモチベーションを保つ選手もいる。
 一方で、自分を貫き通す選手もいる。同じくボクサーで、天才と言われた新井田豊はWBA世界王者になった直後、これからというときに突如引退を発表。周囲を唖然とさせた。しかし、トレーナー生活を経て翌年に選手として復帰すると「今度はボロボロになるまでやる」と宣言し、文字通りボロボロに負かされて、先日、再び引退を決意した。
 自分を貫くといえば、総合格闘家の須藤元気は人気絶頂であった06年の大晦日に、突如試合後のリング上で引退を発表。誰もが、まだ引退には早いと思える時期であっただけに、強烈なインパクト を残した。また、引退後は現役選手としての活動には全く未練を感じさせない。

 仕事と格闘技を両立させている大半の格闘家にとって、引退は千差万別だ。大半の格闘家は、なにごともなかったかのように、ひっそりと引退し、格闘技以外の道を再び歩き出す。しかし、一部のトップ選手はその去就が常に注目され、そして、本人以外の意志もそれに影響を与える。それでも、最終的な決断は選手本人の意志が優先されるべきだろう。大抵の選手の場合、本人がなりたくて格闘家になったのだから。終わる決断も本人がすべきで、ファンがするわけでも、ジムの会長がするべきでもないだろう。
 そして、本人の決断が最優先されるべきであると思うもう一つの理由は、誰も目にしたことのない選手本人にしかわからない可能性が、まだ秘められているかもしれないからだ。引退をささやかれていた選手が、再びリングで活躍することも極めて希にではあるが、ないこともない。小さな可能性から生まれるドラマほど面白いものはない。

 格闘技がスポーツであるなら、そこに筋書きはなく、ストーリーを書くのは選手本人であるべきだ。どのような結末を迎えるのか、リングでの戦いと同じように、それも選手の生き様であり、魅力の一つだ。
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