桑田とブラス「突然の終幕」
71年、パイレーツを世界一に導いた名投手
シーズン直前に現役引退を発表した桑田。昨年39歳で夢のメジャーデビューを果たした 【Photo:AFLO】
彼の選手生活における最大のハイライトをひとつ挙げるならば、やはり1994年10月8日、ナゴヤ球場での「10.8決戦」だろう。この試合、先発・槙原寛己、二番手・斎藤雅樹の後を受けて7回から登板した桑田は、3イニングスを走者二人の無失点に抑え、9回裏、最後の打者・小森哲也を三振に切って取り、見事胴上げ投手となった。その瞬間、普段は物静かな桑田が見せた喜びのガッツポーズは、15年たったいまもなお記憶に新しい。
それをさかのぼること23年前の、71年10月17日。ワールドシリーズ第7戦でも、桑田と同じパイレーツのユニホームを身にまとっていたひとりの投手がそのキャリアでもっとも輝かしい瞬間を迎えていた。この試合に先発したスティーブ・ブラスは、当時「世界最強」とうたわれていたボルティモア・オリオールズを1失点に抑えて完投し、パイレーツを4度目の世界一に導いたのである。優勝決定の瞬間、ブラスがマウンドで見せた「歓喜のハイジャンプ」をAP通信のカメラマンだったラスティー・ケネディーがとらえた写真は、現在も球団史における屈指の名場面としてパイレーツの本拠地PNCパークに大きく飾られ、イヤーブックなど関連の出版物にも必ずといっていいくらい掲載されている。
突然の送球恐怖症
73年、ブラスは突然の「異変」に襲われた。それは投手の職業病というべき肩やひじの故障ではなかった。6フィートの長身から投げ下ろす速球の球威に衰えはなく、決め球のスライダーも健在──だが、それは試合前のウォームアップまでの話だった。前年、249回2/3を投げてわずか84個だった四球の数はこの年も同数だったが、投球回数は88回2/3にまで大幅に減り、前年4個だった死球の数は3倍の12個にまで激増した。近年ではリック・アンキール(カージナルス)が投手から打者への転向を余儀なくされた“イップス”(Yips=送球恐怖症)がブラスを襲ったのである。この年、23試合に登板して3勝9敗、防御率9.85に終わったブラスは、再起をかけて臨んだ翌74年、4月16日のカブス戦に先発するが、5回で7四球、8失点、被本塁打2で降板。これが彼にとってメジャー最後のマウンドとなった。通算103勝76敗。72年終了時に通算3.25だった防御率は、32歳でユニホームを脱いだ時点で3.63に跳ね上がっていた。
桑田の引退にブラスは何を思うのか
だが、ブラスはその投手生活の絶頂期に、肉体的な故障ではなく、投手にとって肩やひじ、スピードとともに生命線である「制球力」を、原因が分からないまま喪失し、32歳にして選手生命を絶たれた。当時のブラスを知る球団関係者は、「肉体的故障と違い、治療やリハビリなど周囲の人間が手を差し伸べる方法がなかったのが、もっともつらい状況だった」と証言している。ただひとつの救いは、まさに天国から地獄へと突き落とされた立場に置かれても、ブラスが決して自暴自棄になることなく、ファンにもチームメートにもメディアにも愛されたその人柄の良さが決して変わらなかったことだったという。
ブラスは引退後、セールスマンなどの職を転々とした後、80年代から古巣パイレーツの専属ブロードキャスターとなり、昨年は地元PNCパークで桑田の登板試合中継も担当している。若き日の黒髪もすっかりロマンスグレーへと変わったことし66歳のブラスは、果たして桑田引退の報をどのような思いで聞いたのだろうか。
<了>
※次回は4月22日に掲載予定です。
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