聖地ヤンキー・スタジアムでの最後の大舞台
少年の夢から始まったオールスター
大打者ベーブ・ルースはオールスターゲーム誕生のきっかけにもなっている 【写真は共同】
33年、シカゴ万国博覧会が開催されることになっていたシカゴ市では、地元の有力新聞『シカゴ・トリビューン』もこの一大イベントに協力することになっており、同社のスポーツ面責任編集者アーチ・ウォードはそのアイデアに連日頭を悩ませていた。ある日、ウォードは編集局に寄せられた一通の投書に目を留める。差出人はシカゴ近郊に住む野球ファンの少年で、「カール・ハッベルが投げ、ベーブ・ルースが打つ、そんな試合を見てみたい」という彼の夢がつづられていた。ハッベルはナショナルリーグ所属のニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ)でこの年から5年連続20勝以上、通算253勝をマークした当時の代表的な左腕投手。しかし、現在のようにインターリーグ(両リーグ公式戦交流試合)などない時代、ハッベルがルースの所属するヤンキースと対戦できる機会はワールドシリーズしかなく、しかもジャイアンツとヤンキースの両雄は、23年を最後にシリーズでの直接対決が途絶えていた。
1回限りのエキシビションゲームが恒例に
1回だけの約束だったこの試合だが、4年前に起こった世界恐慌以来、どの球団も深刻な観客動員に悩んでいた中で驚異的な観客動員を記録したことで、コミッショナーや球団オーナーたちは翌年以降もオールスターゲームの開催を決めた。
第2回球宴は、翌年7月10日、ジャイアンツの本拠地だったニューヨークのポロ・グラウンズで開催され、ハッベルはナ・リーグの先発投手として満を持してマウンドに立った。そして1回表、ついに球宴のアイデアを生み出した少年の夢の対決が実現する。ルースとハッベルの対決である。打者の手元に近づくと、文字通りスクリューのように激しく回転して曲がり落ちるハッベルの決め球に、ルースはなす術もなく三振に倒れた。だが、ハッベルのワンマンショーはこれで終わりではなかった。この回から2回表にかけて後に全員が野球殿堂入りを果たした5人の打者を連続三振に切って取る、破天荒な記録を打ち立てたのだ。
オールスターチームに好投した日本人投手
95年に野茂英雄(当時ドジャース)が日本人選手初のMLB球宴先発登板を果たし、昨年はイチロー(マリナーズ)が史上初のランニング本塁打を放ってMVPに選ばれたが、近年のこうした日本人選手の大活躍を見ると、沢村栄治があと半世紀以上遅く生まれていればの思いを抱かずにはいられない。
<了>
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