静かなる闘志を胸に宿したもう一人の柴田=北京の星

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「オリンピックに行ける」と応援してくれる人がいたから水泳を続けてきたと柴田 【Photo:渡辺正和/アフロスポーツ】

 最も激戦区と言われた競泳・男子200mバタフライで、北京五輪への切符をつかんだのは、最初で最後の大舞台を目指した柴田隆一だった。4月に行われた日本選手権、柴田は決勝で松田丈志に0秒16差の2位で150mを折り返すと、そこから一気に加速。ラスト10mで松田に追いつき、タッチの差で1位の座を射止めた。タイムこそ1分55秒57と自己ベストにも及ばなかったが、アテネ五輪銀メダリストの山本貴司、2005年世界選手権2位の松田との戦いを制して勝ち取った、初の五輪出場権だった。
 競泳仲間から尊敬を集めるほどの練習の虫。決して多弁ではない彼がインタビュー中、力を込めたのは、応援してくれる家族や友人たちへの思いを語った時だった。周りの人たちの支えは、アスリートとしての柴田の原動力でもある。(文=スポーツナビ編集部)

(掲載日:2008年6月23日)

緊張の中でも冷静でいられた選考会

日本選手権の200mバタフライでは、アテネ銀メダリストの山本貴司(左)らを抑えて優勝 【Photo:Atsushi Tomura/アフロスポーツ】

――北京五輪まであと2カ月を切りましたが、実感は沸いてきましたか?

 選考会(日本選手権)が終わってずっと合宿続きだったので、ようやく落ち着いたところです。まだ北京五輪(が迫ってきた)という感じではないですね。

――五輪は初めてとはいえ、これまでにも世界の舞台は経験されてきましたが、大会に臨むまでの日々に変化はありますか?

 ここまでは全然違わないですし、やることも一緒です。気持ちの面でもそんなに変わらないです。違うのは周りの反応ですね。そこはオリンピックだなと思います。代表に決まった瞬間の「おめでとう」っていうメールも、いつもの3倍くらいありました。ただ、練習に集中できないということはないですね。

――200mバタフライ決勝でご自身の順位とタイムを見た瞬間、まずどのような思いが頭を巡ったのでしょうか

 ああ、よかったなーっていう(気持ちです)。ちょっと安心しました。僕自身(のこと)より、応援してくれる人がいっぱいいたので。負けたらそういう人たちに申し訳ないという気持ちでした。

――「選考会までの1カ月間、心臓が張り裂けそうな日が続いていた」とおっしゃっていましたが

 久々にすごく緊張しましたね。その前は(07年の)メルボルンの世界選手権で、その前は06年の日本選手権。それ以来ですかね。それでも、「何とかなるっしょ」と思いながら(緊張の日々を乗り越えました)。緊張と「大丈夫だろう」という気持ちが入れ替わり入れ替わりでしたね。

――松田選手、山本選手らライバルの多い種目で1位になり、代表になれた要因は何だと思いますか?

 冷静にレースを運べたことじゃないですかね。緊張していたし、顔はこわばっていたし、みんなに顔色が悪いって言われましたけど……。その中でも冷静に、隣で丈志(松田)ががーって(先に)行っても「大丈夫」って。そういう冷静なレースができたのが一番だと思います。
 いつもはあまり周りは見ないし、気にならずに自分の泳ぎに集中しています。ただ、あのときは(松田選手が)隣で異常に(前に)出ていたので、ちょっと「あれ」と思いましたね。普通だったら惑わされますけど、(自分が)抑えてもいつもぐらいのラップで回れると思ったので冷静でいられました。

オリンピックは別世界の出来事だった

子供のころ、五輪はウルトラマンのいる世界だと感じていたという 【スポーツナビ】

――競泳を始めたきっかけは何でしたか?

 3歳のころですね。僕は覚えていませんが、最初は全然(水泳が)好きじゃなくて、シャワー室で泣いて帰りたいってわめいていたみたいです。「何でここにいるんだろう」「水泳って何?」みたいな。それで、物心がついた時には通っていたという感じです。

――生まれは熊本で、子供時代は沖縄と福岡で過ごされたんですよね

 佐賀に家があったんですが、出産の時だけお母さんが熊本の実家に帰っていて(そこで生まれた)。そこからすぐ沖縄に行って、小学校6年から中学までは福岡にいて、高校から東京です。本格的な水泳は沖縄のプールで始めて、ステップアップしたのも沖縄ですね。全国大会(に出場すること)とかも考えずに、伸び伸びと楽しく泳いでいました。

――バタフライを専門にするようになったのはいつですか?

 小学校5年生かな。選手を始めたのが4年生で、それまでは「ぶくぶくぱー」、ビート板キックから始めて……という感じで。(バタフライを専門にした)理由は、たまたま泳がされて、たまたま速かったというだけですね。(当時は)そんなに速くはないですよ。向いているという感覚もなかったです。「おまえバッタ(バタフライ)だ」って言われて、「えっ?」って。練習キツイし、嫌だなーって思っていました。

――子供のころ、五輪にあこがれていましたか?

 別世界の出来事だと思っていました。あれはウルトラマンのいる世界なんだ、とそんな感じでした(笑)。自分が(将来五輪に出る)とは全く考えていなかったです。

――五輪を現実のものとして考えるようになったのはいつですか?

 (05年の)大学4年の時に世界と戦える位置に来て、就職か(競泳選手を)続行か(選択を迫られた)という時ですね。アテネ五輪の時は、(選考会で)“順当に”戦って、“順当に”負けた感じです。05年に初めて日本代表に入って、(同年9月の学生選手権で)世界と戦える位置までベスト(の記録)が出て、そこからです。

 ただ、(世界選手権の選考会だった)05年の日本選手権は、(山本)貴司さんが休養期間だったので、たまたま順当に2番になったというだけの話で、その時は日本代表を狙っていたわけではないです。世界選手権は“経験”で終わって、その後のインカレ(学生選手権※1)でそこまでタイムが出せたことで続けようと。

 05年のインカレで(当時所属の日大が)総合優勝した時は、本当にうれしかったです。インカレは一人じゃ勝てないんですよ。みんなで力を合わせないと勝てない中で、全員が得点して、中央大学を倒して12年ぶりに勝った時は最高の気分でしたね。

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