落合啓士「次こそパラリンピックに」=ブラインドサッカー日本代表主将が描く夢

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「みんなの笑顔を引き出したい」

パラリンピック出場を目指すブラインドサッカー日本代表。キャプテンの落合は、間近に迫るアジア選手権に意気込んでいる 【宇都宮徹壱】

 ブラインドサッカー日本代表キャプテン、落合啓士は2016年のリオデジャネイロ・パラリンピック出場を目指している。08年の北京、12年のロンドンと過去2回の挑戦はいずれも失敗に終わった。特に前回大会はあと一歩のところで出場権を手に入れることができなかった。リオに行くためには、5月20日から27日まで中国で行われるアジア選手権と、14年の世界選手権で好成績を収める必要がある。現在35歳の落合にとって、年齢的にも最後となる可能性がある3度目の挑戦に懸ける思いは強い。

「ロンドンパラリンピックの出場を逃して初の国際大会ですし、初代表の選手もいます。そういったなかでもチャレンジをしていきたいです。僕はキャプテンを任されているので、チームをまとめないといけないんですけど、自分が思い描いている選手像は、厳しい状況に追い込まれても、チームに勇気を与えられる選手になること。ゴールを決めて、チームを勝利に導き、みんなの笑顔を引き出したいなと思っています」

 そう語気を強める落合はいま、自身の生活のすべてをブラインドサッカーにささげている。平日は仕事が終わると、夜の公園でひとり練習に励む。土日は関東に住む代表チームの選手とともに汗を流す。少しでも現役生活を長く続けるために、栄養士にアドバイスをもらい、カロリー計算をしながら、自ら料理も作る。酒はもちろん飲まず、肉も口にしない。自宅は最寄駅から徒歩で20分以上かかる場所に構えている。わざわざ不動産屋にそういう物件を紹介してもらったというから驚きだ。それもトレーニングの一環なのだという。こうした生活をもう何年も続けてきた。

 しかし、つらいとは思っていない。「パラリンピックには次こそ絶対に出たいですし、それを目指すことがすごく生きがいになっているんです」。この夢が、落合を突き動かす原動力となっている。

25歳で出会ったブラインドサッカー

視力がなくなる前は、W杯出場を夢見ていた。それだけに、日の丸を背負って戦う重みは十分に理解している 【宇都宮徹壱】

 落合の目に異変が起きたのは小学校4年生のときだった。暗部での視力が衰える「夜盲」の症状が現れると、続けて色の識別ができなくなった。学校の視力検査でそれが判明し、すぐに医師の診断を受けたが、結果は「網膜色素変性症」。中途失明の3大原因とされている難病である。

 病気になる前は、サッカー選手になることを夢見ていた。小学校1年生のときに入った地域のクラブでは、サイドのポジションを任されることが多かった。「いつかはワールドカップ(W杯)に出たい」。そんな壮大な夢も持っていた。だが、その夢は断念せざるを得なかった。日常生活でさえ、誰かの力を借りなければいけないという状況では、フィジカルコンタクトが激しく、危険のあるスポーツを続けることなどできるわけがなかった。

 それでもサッカーが嫌いになったことは一度もない。部活動などで本格的にプレーすることはできなかったが、草サッカーは続けていた。折しも1993年にJリーグが開幕し、サッカーは空前のブームとなる。テレビで音を聞きながら、自身の頭の中でプレーをイメージした。「目が見えなくなったストレスから、荒れた時期もあった」というが、サッカーがあったからこそ立ち直ることができた。

 ブラインドサッカーに出会ったのは03年1月。落合は25歳になっていた。初めての練習では「なんてつまらないスポーツだと思った」。トラップができない。ドリブルもできない。そもそもボールにすら触れない。そのときは「もうやる気がなくなった」と振り返るが、練習終了後に次回大会への参加を要請されたことは幸運だった。その大会こそ、第1回日本ブラインドサッカー選手権だったのだ。

「日本選手権でも全然ボールに触れなくて面白くなかったんですけど、その年の11月に韓国で開催されるアジア選手権の選考がこの大会で行われていて、運良く僕は日本代表に選ばれたんです。ずっとサッカーが好きで、日本代表の試合を見ていたから、日の丸を背負う意味や重みは分かっていました。そこからは当然練習をしないといけない。練習をするとできなかったことができるようになってくる。そうして少しずつ面白さを感じるようになっていったんです」

「やめるのはもったいない」仲間の声で再起

 トントン拍子で日本代表に駆け上がった落合だが、すべてが順風満帆というわけではなかった。05年6月には当時の風祭喜一監督から代表を外されている。理由は、チームの和を乱すから。ある選考会での出来事だ。紅白戦でハットトリックを決めるなど調子はよかった。しかし呼吸が合わず、味方とぶつかったことで頭に血が上ってしまう。そして、心配した審判が肩に乗せた手を振り払ってしまったのだ。

 以前からトラブルメーカーではあった。味方に対してピッチ内で厳しく罵(ののし)り、監督にも堂々と文句を言った。だが、身内だけならまだしも審判にまで悪態をついたことで、風祭監督は「このままだとチームに良い影響をもたらさない」と判断。その結果、落合はメンバー落ちを告げられた。

「当時はゴールボール(編注:目隠しをしながら鈴の入ったボールを転がし、ゴールに入れることで得点する視覚障害者の球技)の代表も掛け持ちしていて、自分にはそれがあるからいいやと思っていました。ブラインドサッカーは始まって間もなかったし、みんなが手探りでやっていくなかで、自分としては厳しさも足りないし、『ぬるいな』と感じる部分もあったんです」

 ブラインドサッカーをやめようと思い、用具は押入れに閉まった。練習にも行かなかった。しかし、当時所属していた大阪ダイバンズのメンバーが「やめるのはもったいない。また一緒にやろうよ」と、何度も声をかけてくれたことで心は変わった。「そこまで自分を必要してくれるのであれば、彼らのためにも続けよう」。代表には戻らなかったが、再び大阪の一員としてプレーすることになった落合は、同年11月の日本選手権でチームを優勝に導いた。この経験が落合を選手としても、人間としても成長させることになる。

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