落合啓士「次こそパラリンピックに」=ブラインドサッカー日本代表主将が描く夢
「みんなの笑顔を引き出したい」
「ロンドンパラリンピックの出場を逃して初の国際大会ですし、初代表の選手もいます。そういったなかでもチャレンジをしていきたいです。僕はキャプテンを任されているので、チームをまとめないといけないんですけど、自分が思い描いている選手像は、厳しい状況に追い込まれても、チームに勇気を与えられる選手になること。ゴールを決めて、チームを勝利に導き、みんなの笑顔を引き出したいなと思っています」
そう語気を強める落合はいま、自身の生活のすべてをブラインドサッカーにささげている。平日は仕事が終わると、夜の公園でひとり練習に励む。土日は関東に住む代表チームの選手とともに汗を流す。少しでも現役生活を長く続けるために、栄養士にアドバイスをもらい、カロリー計算をしながら、自ら料理も作る。酒はもちろん飲まず、肉も口にしない。自宅は最寄駅から徒歩で20分以上かかる場所に構えている。わざわざ不動産屋にそういう物件を紹介してもらったというから驚きだ。それもトレーニングの一環なのだという。こうした生活をもう何年も続けてきた。
しかし、つらいとは思っていない。「パラリンピックには次こそ絶対に出たいですし、それを目指すことがすごく生きがいになっているんです」。この夢が、落合を突き動かす原動力となっている。
25歳で出会ったブラインドサッカー
病気になる前は、サッカー選手になることを夢見ていた。小学校1年生のときに入った地域のクラブでは、サイドのポジションを任されることが多かった。「いつかはワールドカップ(W杯)に出たい」。そんな壮大な夢も持っていた。だが、その夢は断念せざるを得なかった。日常生活でさえ、誰かの力を借りなければいけないという状況では、フィジカルコンタクトが激しく、危険のあるスポーツを続けることなどできるわけがなかった。
それでもサッカーが嫌いになったことは一度もない。部活動などで本格的にプレーすることはできなかったが、草サッカーは続けていた。折しも1993年にJリーグが開幕し、サッカーは空前のブームとなる。テレビで音を聞きながら、自身の頭の中でプレーをイメージした。「目が見えなくなったストレスから、荒れた時期もあった」というが、サッカーがあったからこそ立ち直ることができた。
ブラインドサッカーに出会ったのは03年1月。落合は25歳になっていた。初めての練習では「なんてつまらないスポーツだと思った」。トラップができない。ドリブルもできない。そもそもボールにすら触れない。そのときは「もうやる気がなくなった」と振り返るが、練習終了後に次回大会への参加を要請されたことは幸運だった。その大会こそ、第1回日本ブラインドサッカー選手権だったのだ。
「日本選手権でも全然ボールに触れなくて面白くなかったんですけど、その年の11月に韓国で開催されるアジア選手権の選考がこの大会で行われていて、運良く僕は日本代表に選ばれたんです。ずっとサッカーが好きで、日本代表の試合を見ていたから、日の丸を背負う意味や重みは分かっていました。そこからは当然練習をしないといけない。練習をするとできなかったことができるようになってくる。そうして少しずつ面白さを感じるようになっていったんです」
「やめるのはもったいない」仲間の声で再起
以前からトラブルメーカーではあった。味方に対してピッチ内で厳しく罵(ののし)り、監督にも堂々と文句を言った。だが、身内だけならまだしも審判にまで悪態をついたことで、風祭監督は「このままだとチームに良い影響をもたらさない」と判断。その結果、落合はメンバー落ちを告げられた。
「当時はゴールボール(編注:目隠しをしながら鈴の入ったボールを転がし、ゴールに入れることで得点する視覚障害者の球技)の代表も掛け持ちしていて、自分にはそれがあるからいいやと思っていました。ブラインドサッカーは始まって間もなかったし、みんなが手探りでやっていくなかで、自分としては厳しさも足りないし、『ぬるいな』と感じる部分もあったんです」
ブラインドサッカーをやめようと思い、用具は押入れに閉まった。練習にも行かなかった。しかし、当時所属していた大阪ダイバンズのメンバーが「やめるのはもったいない。また一緒にやろうよ」と、何度も声をかけてくれたことで心は変わった。「そこまで自分を必要してくれるのであれば、彼らのためにも続けよう」。代表には戻らなかったが、再び大阪の一員としてプレーすることになった落合は、同年11月の日本選手権でチームを優勝に導いた。この経験が落合を選手としても、人間としても成長させることになる。