元WEリーガー牛久保鈴子さんがフロンターレスタッフになるまで
【©KAWASAKI FRONTALE】
選手権大会で決勝進出
作陽高校で選手権大会に出場して準優勝に貢献 【©本人提供】
中学生になると日テレ・ベレーザのアカデミー(育成組織)、日テレ・メニーナ・セリアスに加入。今年のFIFA女子ワールドカップでも活躍した植木理子とのツートップが繰り出す絶妙なコンビネーションから多くの得点を奪い、全日本女子ユース(U-15)サッカー選手権大会の優勝に貢献をした。ただ、植木がユースチームに昇格すると「私一人だけでは点も取れないし、チームのサッカーが成り立たたず個人能力の物足りなさを感じた」という。だからこそ高校進学は個人技術を磨ける場所を選んだ。
日テレ・メニーナ・セリアス時代にU-15全日本女子ユースサッカー選手権大会で優勝を経験 【©本人提供】
そして2017年に開催された第26回全日本高等学校女子サッカー選手権大会では決勝進出する大躍進を遂げる。個人としてもチーム最多の3得点をマークし、準決勝ではフリーキックから貴重なゴールを決めるなど作陽高校のエースとして奮闘。素晴らしい活躍を見せて、東洋大学へと進学することになった。
東洋大学時代のゴールパフォーマンスはレアンドロ ダミアンのヒゲパフォーマンス 【©Toyo University】
「大学生活の4年間、ほとんどの時間は怪我で何もできませんでした。高校3年生のときに残した成績に比べても、大学では何も残せなかったことが悔しい。思い出にあるのはリハビリのことだらけ…。本当に苦しくて、もうサッカーができないかもしれないと感じたこともありました。寮生活だったので当たり前ですが、部屋ではチームメイトが試合の話や反省の話をしていて…。そのときに自分の居場所がなくなってしまうのではないかと思ったこともありましたし、自分の存在価値も分からなくなって自分も人も信じられなくなるときもありました。それでも、もう一度サッカーを続けてきたわけですから、やっぱり私はサッカーが大好きなんだと改めて感じました」
正直に言えば、怪我をしてポジティブなことは一切ないだろう。今まで積み上げてきた技術や感覚はほとんど無くなり、リハビリも半端な覚悟では乗り越えることはできない苦しさがある。それでも前向きに捉えてやり続けることで、牛久保さんが感じたことがあったという。
「サッカーを好きでいられたのは、リハビリから復帰するまでの過程で一人じゃないということを感じられたからです。今まで関わってきたサッカーで出会った人たちに助けられました。一人ではたどり着けなかった景色を見ることができたので、人としても大きくなれた気がしています。だから試合に出られない同じ立場の選手や、怪我で試合に出られない子たちの気持ちをより分かるようになりました。これはきっと試合に出続けていたら分からなかったこと。もちろん怪我をしてよかったとは絶対に思わないけど、他人を思いやる気持ちを得ることができたのは自分にとってよかったと思っています」
開かれたプロへの扉
プロデビューとなったカップ戦 【©Nojima Stella Kanagawa Sagamihara】
ここからWEリーグで活躍する自分の姿をイメージして臨んだ夢の舞台での戦い。ワクワクする気持ちで胸が溢れていた。しかし、練習中に再び脛に激痛が走ってチームから離脱。なんとかリハビリを重ねながら復帰することはできたが、痛みのストレスがゼロになることはなかった。そんななか行われた定期検診で、脛骨が折れていることが発覚。医者からは『再手術はできない。やれる治療はすべて行っての再発だから治療法がなく完治は難しい』と診断を受けた。
「それを聞いた瞬間に心が折れました。今までずっとリハビリをしてきたのに…。もう無理かもしれないって…」
診断結果を聞いた瞬間、頭は真っ白になり、自分のなかで引退を意識し始めた。プロサッカー選手として出場したのはカップ戦の1試合のみ。悔しさや歯がゆさが込み上げてくる1年3ヶ月のプロ生活。その短くとも濃いプロキャリアを振り返って浮かんでくるのは自分を支えてくれた方々のことだった。
「プロになって変わったのは私が知らない人が自分のことを応援してくれること。1枚2万円近くするユニフォームを買ってくれて、それを着て応援しにスタジアムに来てくれるんです。私はほとんど試合に出られなかったのでスタンドにいたのですが、いろんな場所に自分のユニフォームを着てくれている人がいました。すごく自分の励みになりましたし、本当に大きな存在になっていました。辛いときでも苦しいときでも踏ん張れたのは、サポーターの方のおかげです。また、思うようなプレーができず苦しい時間もありましたが、怪我をして人のつながりや人の温かさを感じることができました。孤独なリハビリ期間もチームメイトが側にいてくれて支えてくれましたし、サッカーで出会えた方々のおかげでサッカーを続けることができたなと感じています」
運命的な出会い
パソコンで業務をしながら談笑する牛久保さん 【©KAWASAKI FRONTALE】
「川崎フロンターレ「正社員」募集のお知らせ」
1番好きなJリーグチームが求人を出していることを知ってワクワクして胸が踊った。ただ、まだ正式に引退を決断していないのに応募してもいいものかと迷いもあったが、友人の言葉に背中を押された。
「私がやりたい仕事を私の1番好きなチームが募集しているのに、『何をそんなに躊躇しているの?』と仲のいい友達にすごく怒られました。そのとき、“サッカーを続けるのか”“引退してフロンターレで働きたいのか”を天秤にかけたときに、初めてサッカーをプレーすること以上にワクワクすることに出会いました。本当に友だちの後押しも大きかったです」
それにフロンターレで働きたかった理由として、地域の方を笑顔にしたいという思いがあった。
「ノジマステラ神奈川相模原ではプレーする機会が少なかったので、物販やイベントに出ることがあり、地域に関わる機会が多くありました。そのときに感じたのがプレーをする以外にも人を笑顔にすることができるということ。『週末に試合があるから仕事を頑張ろう』とか言ってくれる方もいて。私がプレーをしなくても人を喜ばせることができるんだなと感じることができました。だから私もサッカーに携わることで人を笑顔にしたいんです。それを象徴しているのがフロンターレ。地域の方々を大切にしているし、ホームゲームでも勝ち負け関係なく人を笑顔にできる。だからこそ、ここで働いて私も地域の方々に笑顔を届ける存在になりたいという思いを持っていました」
Anker フロンタウン生田では健康事業としてポールウォーキング教室も実施しており、牛久保さんも参加している 【©KAWASAKI FRONTALE】
「私のいまの目標はAnker フロンタウン生田の支配人・浦野さんのような人になることです。浦野さんは人から愛されて、頼れる存在。一緒に仕事をしていても尊敬できますし、日々学ぶことだらけです。一緒に働いていて笑顔になるし、強い芯をもっている。私もそういった強い女性でありたいんです」
セカンドキャリアのモデルケースに
「自分のような選択肢があることを知ってほしい」と語る牛久保さん 【©KAWASAKI FRONTALE】
「WEリーガーのセカンドキャリアでJリーグチームのスタッフになることは珍しいこと。いま、WEリーガーのセカンドキャリアは議論にもあがっているのですが、そこで自分のような選択肢もあることを知ってほしい。サッカー選手をしながら就職活動をしないといけなかったので葛藤もありましたし、プロとして中途半端なんじゃないのかと悩むこともあると思います。でも、その両方を並行して行うことが大切だと身をもって感じました。だから私がいい事例になってほしいですし、そういう方にとっても力になれればと思います」
ここまでのサッカーキャリアは順風満帆ではなかった。それでも家族やチームメイト、サポーター。さまざまな人がサポートをしてくれたことで、悔いなく牛久保さんはセカンドキャリアへの道へと進んだ。
「サッカーは私にとって人とのつながりを作るもの。サッカーがあるからいろんな人と出会えて、今までを振り返ってもたくさんの人に支えられてサッカーを続けることができました。サッカーをやっていなかったらどうなっていたんでしょうね。関わってきた人のおかげでプロサッカー選手になることもできましたし、いまこうやってフロンターレで働けているのも出会ってきた人のおかげだと思っています。本当に私はフロンターレで働くことができてよかったです」
人と人をつないでくれたサッカーに感謝を込めて、恩返しをするときが来た。サッカー界、フロンターレを盛り上げることに貢献できるように──。牛久保さんはセカンドキャリアの第一歩を踏み出した。
(取材・文:高澤真輝)
家族のようなスタッフたちと笑顔で業務に励む牛久保さん。次なる目標へと駆け上がる 【©KAWASAKI FRONTALE】
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