“ボクシング不毛の地”に芽吹き、プロで花開いた才能 12.7注目の丸田陽七太戦に臨む三代大訓のユニークさ
「どちらの“精度”が上か」という丸田戦
12月7日、後楽園ホールで戦う三代大訓(左)と丸田陽七太(2024年10月5日) 【写真:船橋真二郎】
フェザー級時代の丸田が、のちに世界挑戦を果たす阿部麗也(KG大和)との2冠戦に敗れたのは2022年5月。阿部戦で負ったケガの治療を経て、昨年9月のライト級初戦からここまで2戦。いずれも外国人相手で、まだライト級では試されていないという見方もできるが、ここで階級を上げてきた効果を発揮してくる可能性は十分ある。
三代は「どちらの“精度”が上か」と丸田戦のポイントを挙げる。つまり磨き抜かれたテクニックと練り上げてきた戦術を、どちらが相手により的確にアジャストできるか、という精緻な戦いである。自分を見失わない強靭なメンタルが問われることは言うまでもない。
あらためて、両者のバックグラウンドを振り返ろう。
丸田は6歳、幼稚園年長の頃から、メキシコ五輪バンタム級銅メダリストの森岡栄治さんが大阪で興し、地元兵庫・川西市に移転してきた森岡ジムでボクシングを始めた。小・中学生年代の大会で活躍し、全国優勝は通算4度を数える。
大阪・関大北陽高校時代はアジア・ジュニア選手権銅メダル、インターハイで1年生から2年連続準優勝の実績を残した。2年生の秋にB級プロテストに合格。ロサンゼルス合宿などで腕を磨いて、1年後にプロデビュー。いきなり世界ランカー相手に華々しく初陣を飾った。
幼少期から指導を受け、プロでチャンピオンになった現在に至るまで、森岡栄治さんの長男で、近畿大学でアマチュアを経験した森岡和則会長と二人三脚。固い信頼関係で結ばれている。
子どもの頃から豊富な実戦経験を重ねてきた丸田に対し、中央大学では主将を務め、アマチュアでキャリアを積んだ三代。昨今のトップボクサーたちの主流に連なる2人と言えそうだが、いわゆるアマチュアエリートとひとくくりに三代を見るべきではない。
「プロでは“叩き上げ”じゃない部類に入れられますけど、僕なんかアマチュアの中では雑草。今でも心は雑草ですよ」
島根で築かれたボクサーとしての礎
故郷の島根でボクシングと出会い、高校1年生だった三代大訓は変わった 【写真:船橋真二郎】
部活ではなく、ジムで練習し、高校の大会に出場した。当時は島根県全体で同学年の登録選手は三代だけ。ジムにも同世代はいなかった。練習相手は健康コースで汗を流す会員のおじさんたちという“ボクシング不毛の地”だった。だが、「そこが僕の強みだと思います」と三代は言う。
「そこから友だちとは違う高校生活を送るわけです。学校が終わったら、周りが部活をしたり、遊びに行ったりする中で、僕だけ毎日、ひとりでジムに行って、入れ替わりで相手をしてくれる大人たちと関わりながら練習をする。そういう生活を自分で選択して、すべて自分事として決断して、やるという感覚。それが今の僕の土台になってると思います」
指導を受けた廣澤倫明会長は実業団に所属した長距離ランナーの出身。20代後半からグローブを握り、全日本実業団アマチュアボクシング選手権で優勝したという変わり種だった。自身も競技が盛んではない環境に身を置いてきた経験からか、挨拶などの礼儀やボクシングの基本は厳しく教え込まれる一方で、「やらされるんじゃなくて、自分で考えてやる」ことが指導の根っこにあったという。
「部活みたいにみんなで一緒に同じことをやるようなこともないし、これはこうとか、こうやれとか、押しつけられないし。ボクシングは自分で考えてやるもんだ。そういう教えでした」
全国大会はインターハイに2度出場。高校2年時は初戦敗退、3年時はベスト8で全国的には無名の存在。が、「ずっと楽しくて、ワクワクしたまま高校生活が終わりました」と無気力だった少年は変わった。
スポーツ推薦で中央大学に入学。大学のボクシング部の練習は基本的に部員の自主性に任される。極端には練習をサボるなど、個々の意識で差がつく。「3分間のシャドー(ボクシング)ひとつにしても、どこまで、どうやるかは自分次第」。自分で決断し、自分で考えて練習する習慣が生きた。周囲は高校で実績を残した強豪ばかり。練習相手のレベルは格段に高く、何をどうやるか、考える力も練習内容のレベルも上がった。
その力は試合までの準備期間が長いプロでより生かされた。何をどう練習するのかを決め、この相手に対し、どう戦うかを練り上げ、勝利をつかんできた。また自分を分析し、何を武器とし、どう生き残るかを考えた。左ジャブは三代の代名詞だが、大学時代に磨いたものをプロでさらに突き詰めたもの。
とはいえ、大学では中国ブロック予選をなかなか突破できず、個人の全国大会の成績は1年生のときに出場した全日本選手権のベスト8のみ。関東大学リーグ戦も1部に昇格した2年時を除き、残りの3年間は2部で戦った。自らを「雑草」と言うゆえんである。
ちなみに宇津木の平成国際大学は4年間、2部に在籍。三代とは全国大会で対戦経験はなく、2勝1敗はすべてリーグ戦。いわば2人の関係は「2部のライバル」だった。三代は笑う。
「そんな僕らが今、プロの国内トップにいて、ライバルと言われている。それが面白いですよね」
ボクシング不毛の地に芽吹き、大学で育まれ、プロで花開いた才能=三代と、6歳の頃から英才教育を受け、固い信頼で結ばれた指導者と二人三脚で歩んできたボクシングの申し子のような才能=丸田の激突。丸田戦もまた見方を変えると面白い。
「何もない田舎の小っちゃなジムから始めた僕がどこまで行けるのか。僕自身が楽しみにしてますよ」
三代が目を輝かせていたのは23歳、まだ日本ランカーの頃だった。30歳を迎え、島根から始まったボクシング人生は勝負の終盤にさしかかっている。
※12月7日、三代大訓vs.丸田陽七太は「U-NEXT」でライブ配信される。