小田凱人が語る国枝慎吾の存在 「憧れ」からの卒業を覚悟したのは?
【写真は共同】
9歳のとき、左脚の骨肉腫を手術したことで車いす生活を余儀なくする。「サッカー選手になりたい!」という夢は絶たれたが、偶然出会った車いすテニスでいま世界中から大注目を集めている。驚くべきはラケットを初めて手にしてから、わずか8年での偉業達成である。
◎なぜ、驚異的な記録を短期間で達成することができたのか?
◎なぜ、大病を患ったのに前向きでいられたのか?
◎なぜ、厳しい世界で勝ち続けられるのか?
◎なぜ、プロでも「楽しさ」維持し続けられるのか?
本書は、小田凱人の人生をひとつずつ紐解きながら、「最速で夢を叶えた秘訣」を明らかにする。
小田凱人著『I am a Dreamer 最速で夢を叶える逆境思考』から、一部抜粋して公開します。
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「国枝さん」と「憧れ」
いろいろな場所で「憧れの存在」と語ってきたが、じつのところ僕のなかでは「不思議な存在」という風にも感じている。
たしかに僕は国枝さんのプレーする姿を動画で観て、テニスの世界にのめり込んだ。それは間違いない。そして国枝さんのようになりたいという夢を描きながら、テニスに励んだ。前の項でも何度か書いてきたように、国枝さんのフォームや表情まで、細かくコピーしようとしたこともある。
けれども途中で気づいた。
僕は国枝さんに憧れているのだけれど、プレースタイルも全然違うし似ているところは少ないのではないかな、と。憧れていて、「そうなりたい」と願っているのに、心のなかには「彼とは違う」という思いも芽生えてきた。理想と現実に少しずつズレのようなものが生じて、複雑な心境を抱くようにもなった。
2019年に日本で開催された「楽天・ジャパン・オープン・テニス・チャンピオンシップス2019(現・木下グループジャパンオープンテニスチャンピオンシップス)」のダブルスで、僕は初めて国枝さんと試合で相まみえることとなった。
そのときの感情は、やっぱり「試合ができてうれしかった」が強かった。やはり僕はこのときも対戦相手というよりも、憧れという目で見ていたのだった。
このまま僕は国枝さんのことを「憧れの存在」として見続けていいのだろうか。
僕はいよいよ、国枝さんに対して憧れから卒業しなければならないという覚悟を持つようになった。
その後、コロナ禍などの影響で大会中止などが相次ぎ、再び国枝さんと対決したのは、2022年1月、オーストラリアで開催されたメルボルンオープンだ。
このときの僕の国枝さんに対する意気込みは、「ぜったいに倒すべき相手」だった。
小学生のときからずっと抱いていた国枝さんへの憧れは、すべて過去に置いて臨んだ。
結果は、残念ながら僅差で負けてしまった。負けはしたが、僕はこのときついに国枝さんと互角に近い勝負ができたのである。
こうして僕は、「憧れの国枝慎吾さん」を卒業した。今振り返ってみると国枝さんに対する「憧れ」には、さまざまな思い出が詰まっていた。
それは、次のようなことだ。
夢を与えてくれた
↓
ずっと見続けたい
↓
真似したい
↓
同じ舞台に立ちたい
↓
認められたい
↓
超えたい
もちろん、国枝さんのほうから僕をそのように仕向けたわけではない。あくまで僕のなかにある「国枝慎吾像」が膨ふくらんでいった結果だ。国枝さんは、僕をどんどん強くしてくれる存在だった。
残念ながら国枝さんに勝つことは叶わなかった。だけど僕は十分に「憧れた」から今はもう満足している。
ただし、これだけは言いたい。
引退をされたにもかかわらず、僕は今でも国枝さんをお見かけすると「うわ、国枝さんだ!」と、童心に戻ってしまう(笑)。
結局、僕にとってはこれからもずっと「憧れ」なのだ。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
9歳のとき、左脚の骨肉腫を手術したことで車いす生活を余儀なくする。「サッカー選手になりたい!」という夢は絶たれたが、偶然出会った車いすテニスでいま世界中から大注目を集めている。驚くべきはラケットを初めて手にしてから、わずか8年での偉業達成である。
◎なぜ、驚異的な記録を短期間で達成することができたのか?
◎なぜ、大病を患ったのに前向きでいられたのか?
◎なぜ、厳しい世界で勝ち続けられるのか?
◎なぜ、プロでも「楽しさ」維持し続けられるのか?
本書は、小田凱人の人生をひとつずつ紐解きながら、「最速で夢を叶えた秘訣」を明らかにする。
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