「個人主義の若者」だった慶應高・森林監督 「高校野球らしさ」に疑問を抱いた原体験とは?
【写真は共同】
歓喜に湧いた全国制覇から1年、慶應高の歴史に迫った書籍『慶應高校野球部:「まかせる力」が人を育てる』(加藤弘士著)から一部を抜粋して掲載します。
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高校時代は「むかつく選手」
「むかつく選手だと思いますよ。基本的に自分のことしか考えていなかった。まわりにいい影響を与えようとか、声をかけて励まそうとか、そういうのは全然なくて『自分のことをちゃんとやっていればいいんでしょ』みたいな。何か職人的な選手ですよね。『自分の仕事はやりますよ。何か文句ありますか』という。チームにプラスアルファを与えるような選手ではなかったと思います」
謙遜かと思っていた。しかし……そうでもないようだ。
慶應高校野球部監督として現役時代の森林を指導した上田が、当時を回想した。
その言葉を伝えると、森林も苦笑した。
「本当にその通りですよ。チームとしてのバランスとか全然考えていなかった。まわりが全然見えていない。今なら、上田さんの気持ちがわかります(笑)」
主将でも副将でもなく、我が道を行く個人主義の若者が変化を遂げるのは慶大進学後、慶應高校の学生コーチに就任してからだった。
「学生コーチ」で自分本位から相手本位に
「大学の野球部で活躍できるイメージは正直、描けませんでした。一方で高校野球は好きだったし、上田監督が来て高校野球がおもしろくなった。学生コーチとして上田さんや後輩たちと一緒に、夢の続きをやりたいなと思ったんです」
法学部法律学科の授業を終えると野球部のグラウンドに向かった。熱血漢の同期と二人で内野手を担当した。冷静沈着に選手を見つめ、チームを見渡して助言を行った。自らが発した一言で高校生が変化する。上手くなる。森林はコーチ業の虜になった。
「コーチをやることで、今までの自分本位から相手本位へと立場上、変わらざるを得なくて。それが全く苦にならなかったんです。目の前で選手が成長していく、チームが良くなっていく。これって楽しいなあって。かなりやりがいになっていましたね」
就職活動はメーカーやインフラ系を中心に回った。バブル崩壊後、就職氷河期のまっただ中だったが、内定先はNTT。森林が4年生だった1995年当時、時価総額世界ランキング第2位の企業であった。
「高校野球は学生時代までで、次はもうビジネスマンになるつもりだったんですよね。教員免許も取っていなかったですし」
大学4年、学生コーチとして迎えた「最後の夏」。慶應高校は勝ち進んだ。まだ推薦入試制度もなかった頃。内部進学組と一般入試組のみのチームは3年生の吉原大介、2年生の佐藤友亮(ともあき)と好投手二人を擁し、32年ぶりに神奈川大会決勝に勝ち進んだ。日大藤沢に2-4で敗れ、1962年夏以来の甲子園には届かなかったが、横浜スタジアムの客席から見つめていた森林の胸中には、熱いものがあった。
「ああ、ここまでチームが来られたんだ。高校生ってこんなにガンガン成長するんだって。それに携わることができた喜びですよね。一方で、悔しくて。やっぱりあと一歩、届かないんだって。もうちょっと続きをやらないと完結しないな、もうちょっと先まで行きたいなと思いながら、卒業した感じですね」