書籍連載『THE RISE 偉大さの追求、若き日のコービー・ブライアント』

けがを押してダンクコンテストに出場したコービー 高校生ながら「ロックスター級」の大歓声を浴びる

ダブドリ編集部

【Photo by Mark Terrill/Pool/Getty Images】

 父ジョーからはバスケットボールを、母パムからは規律を学んだコービー・ブライアントは、幼い頃からコート上でその才能を輝かせていた。しかし、13歳でイタリアからフィラデルフィアに戻ったコービーは、バスケットボールという競技だけでなく、逆カルチャーショックやイタリアから来たよそ者というレッテルとも戦うことになってしまうのだった……。

 マイク・シールスキー 著『THE RISE 偉大さの追求、若き日のコービー・ブライアント』はNBAレジェンド、コービー・ブライアントがフィラデルフィアで州大会優勝を成し遂げ、レイカーズに入団するまでの軌跡を描いています。この連載では、コービーの高校時代を彩るさまざまな要素を一部抜粋の形でご紹介します。
 ビーチボール・クラシックを締めくくるのは、選手も観客も全員が一番楽しみにしていた、土曜の夜のダンクコンテストだった。怪我を悪化させる可能性を懸念して、チームメイトやコーチ陣、家族にまで止められたにも関わらず、コービーはダンクコンテストに出ることを心に決めていた。シャリアとシャヤはコービーとトリートマンの部屋を訪れ、半泣きで弟を説得しようと試みた。「お願いだからやめて」。「彼女たちは心配していたし、彼のご両親も出場してほしくなかったんだと思う」とトリートマンは言った。「でもコービーは『大丈夫、大丈夫だって』といった調子だった」。

 トリートマンやエイシーズ関係者は全員、コービーが腕の痛みを悪化させる心配とは別に、コンテストに参加したらどこまでできるのか興味があることは認めざるを得なかった。試合中に普通にダンクするところは見たことがあった。力強く、高校生にしては素晴らしかったが、彼の創造性や運動能力は、バスケットボールのルールに制限され、スポーツマンシップの許す範囲内に収まっていた。しかし、助走も小道具もありの制限がない状況で、彼には何ができるのだろうか? 
 白いローワー・メリオン高校のジャージを身につけ、腕にはまだテーピングが巻かれたままのコービーは、第一回目の挑戦でボールをバスケットに向かって放り投げ、床に跳ねたボールをそのままキャッチしてゴールに叩き込んだ。観客のリアクションは控えめで、三人の審査員はそれぞれ10点中9点という採点だった。コービーは体育館の左角でボールをつき、次にどうしようか考えた後、ベースライン付近からスタートし、左手に持ったボールを股の間をくぐらせて右手に持ち替えながら踏み切ってダンクした。これには観客も審査員も喜んだ。10点満点が三つ並び、大歓声がしばらく続いた。

 決勝戦に進んだのは彼と友人のレスター・アールで、コービーが次のダンクについてあれこれ検討する間、一人の少年が「コービー! コービー!」と唱える声が聞こえてきた。コービーは右手でボールを持ちながらファウルラインから踏み切って、空中で左手に持ち替え、バスケットにぶち込んだ。アールも完璧なダンクでそれに応え、二人にはタイブレークでもう一度チャンスが与えられた。

 勝つには想像力を働かせないといけないことがわかったアールは、ボールが九つ乗ったままのバスケットボール・ラックをコートに引っ張ってきて、コートの右側のベースラインとファウルラインの間の中間地点に設置した。右側から二回ドリブルをつき、軽々とラックを越えるとアールは左手でボールを叩き込んだ。迫力満点だった。また10点が三つ並んだ。グレン・オークス高校の選手たちがアールをハグしにコートに押し寄せた。これでコービーは同点にするしかなくなった。それは簡単なことではなかった。

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著者プロフィール

異例の超ロングインタビューで選手や関係者の本音に迫るバスケ本シリーズ『ダブドリ』。「バスケで『より道』しませんか?」のキャッチコピー通り、プロからストリート、選手からコレクターまでバスケに関わる全ての人がインタビュー対象。TOKYO DIMEオーナーで現役Bリーガーの岡田優介氏による人生相談『ちょっと聞いてよ岡田先生』など、コラムも多数収載。

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