「全米No.1高校生」の座を手に入れたコービー コーチKも参加したスカウト合戦は…
【Photo by Lisa Blumenfeld/Getty Images】
マイク・シールスキー 著『THE RISE 偉大さの追求、若き日のコービー・ブライアント』はNBAレジェンド、コービー・ブライアントがフィラデルフィアで州大会優勝を成し遂げ、レイカーズに入団するまでの軌跡を描いています。この連載では、コービーの高校時代を彩るさまざまな要素を一部抜粋の形でご紹介します。
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シャシェフスキーが休んでいる間、長い間アシスタントコーチを務めていたピート・ガデットが代役を務め、デューク大は1994―95シーズンを13勝18敗の成績で終えた。状況は切迫していた。元NBAコーチでシクサーズ時代のジョー・ブライアントのチームメイトでもあり、息子のクリスがブルー・デビルズでプレーしていたダグ・コリンズが、ある敗戦後のロッカールームに乱入し、シャシェフスキーの選手たちを正しく起用していないとガデットに怒鳴り散らしたほどだった。このシーズンは、36年間でデューク大が唯一NCAAトーナメントを逃したシーズンとなった。1995年の秋には復帰できるほど快方に向かっていたシャシェフスキーは、以前の栄光を取り戻すためにスーパースター獲得が喫緊の課題であるプログラムへと復帰することになった。
そのスーパースター役の照準をコービーに定めたシャシェフスキーは、デュークとコービーとの主な連絡係にトップアシスタントコーチのトミー・アマカーを任命した。ローワー・メリオン高校でのアマカーの連絡相手はマイク・イーガンだった。バスケットボールでも、それ以外の面でも、コービーはデューク大が選手に求めているものを全て兼ね備えているとアマカーは思っていた。コービーには、知性、視野の広さ、そしてイタリアで過ごしたことで養われた異なる人や文化に対する理解など、さまざまな面があった。
しかし、コービーがデューク大に進学する可能性について話し合ったのは、おそらくアマカーがイーガンと話した時間の方が、イーガンがコービーと話した時間よりも長かっただろう。「コービーはそういうことに関して、滅多に人に話さなかった」とイーガンは言う。
「彼自身の決断であって、我々がどうこう言うことではない、と彼を尊重するようにしていた。『もし話したいことがあれば相談してくれ』というスタンスだった。でも彼は自分の中で色々なことを分けて考えることができる才能を持っていたんだ。だからこの件についてほとんど話し合わなかった」。
ところが、コービー自身は電話でシャシェフスキーと直接話して、すぐに彼のことを気に入った。リクルーティングの初期、二人はバスケットボールの話よりも、コービーが海外で過ごした経験や、アメリカに戻ってからの最初の数年について話すことの方が多かった。グラント・ヒルの四年間のデューク大在籍期間中、いかにしてシャシェフスキーが彼を育成したかを、コービーは尊敬していた。シャシェフスキーはヒルがチームのリーダーシップを担ったことや、ブルー・デビルズがメディアに注目されることに対して彼が順応していったことなどの話をコービーにして聞かせた。
ヒルは1994年のドラフトで彼を三位で指名したデトロイト・ピストンズでの1シーズン目を終えたばかりだった。平均20得点近くを記録し、イースタン・カンファレンスのオールスターチームに選ばれ、リーグの最優秀新人賞を受賞していた。コービーは、シャシェフスキーが自分にも同じような影響を及ぼすところを想像することができた。高校四年生の終盤になると、コービーは近しい人たちには、もし大学に進学する場合は間違いなくデューク大を選ぶだろうと話すようになっていた。