神戸・酒井高徳が語る困難を乗り越える秘訣とは? 「ダメな時ほど人より追い込む。それが好結果を生む」

元川悦子

会心の笑みとガッツポーズが似合う男・酒井高徳 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

 今季J1優勝争いをリードするヴィッセル神戸。ここからタフな戦いを強いられるチームを最終ラインの一角から力強く支えるのが、32歳のサイドバック(SB)・酒井高徳だ。

 今季は22試合出場2得点という実績を残す酒井はアルビレックス新潟でプロキャリアをスタートさせ、ドイツのシュツットガルト、ハンブルガーSV(HSV)で8シーズンプレー。2019年から神戸の大黒柱として活躍している。

 そんな彼は新潟県三条市出身。小学校5年からサッカーを始め、中学時代には片道1時間半近くかけて新潟のスクールに週3回通い、高校からは親元を離れて新潟ユース入り。自立心を養いながらサッカーにまい進してきた。

 自分の意見を堂々と口にできる人間性が特に磨かれたのはドイツ時代。代表でも苦労があったが、つねに前向きに突き進んできた。模範的なプロフェッショナルの酒井に自身のキャリア、挫折の乗り越え方を聞いた。

負けじ魂で突き進んだ10代前半の自分

「僕がサッカーを始めたのは11歳のとき。三条スポーツ少年団(SSS)に入って本格的にボールを蹴りましたが、みんなよりスタートが遅かった分、サッカーが新鮮で、楽しくて仕方がなかった。少年団がない日も毎日サッカーしていたし、もう一生サッカーしていたいくらいの気持ちでした(笑)

 中学時代は地元・大崎中学校の部活に入り、中2で県トレセンに選ばれてから新潟のスクールに入ったんですが、自宅から自転車で三条駅まで行き、新潟まで1時間近く電車に乗り、さらにバスに乗って練習場に向かうというのを週3回やっていました。帰宅が夜11時を過ぎることもあったけど、何も苦に感じなかった。楽しくて仕方なかったですね。

 それでも飽きたらず、僕は中3になるときにはレザーFSという個人能力を伸ばしてくれるクラブチームに入った。そこでも練習終わりに来た社会人チームの人たちに交じって練習していたくらい。とにかく負けず嫌いだったし、サッカーがうまくなりたいっていう純粋な気持ちが強かったんだと思います」と酒井は血気盛んだった10代前半を述懐する。

 育成時代の1つの転機は、中3のU-15日本代表入り。1つ下の原口元気(シュツットガルト)、2つ下の宇佐美貴史(G大阪)らタレントがひしめき、彼は大きな刺激を受けた。

「僕は性格的に『この選手はうますぎてすごい』と思いたくないタイプ(苦笑)。でもやっぱり元気、宇佐美、茨田(陽生=湘南)とかはうまかった。僕が新潟ユースに入ってから、原口や宇佐美が高校生でJリーグにデビューしていくのを見て、自分も単純に負けたくない、早くプロになりたいと強い気持ちを持って練習に取り組みましたね」

宇佐美や原口ら同年代の仲間に刺激を受け、10代から新潟で頭角を現した酒井高徳 【写真:築田純/アフロスポーツ】

ドイツで痛感した自己主張の重要性

 酒井は目の色を変えて努力を重ね、高校3年だった2008年11月の天皇杯・FC東京戦でプロデビュー。翌2009年にはトップ昇格を果たし、2年目には左SBのレギュラーに定着し、将来を嘱望されるようになる。さらに2010年には、南アフリカワールドカップ(W杯)でサポートメンバーとして帯同。2011年末にはいち早く海外移籍に踏み切った。

「僕は新潟ユース時代に寮生活をしていて、自分で洗濯をしたり、身の回りのことをやるのには慣れていて、比較的早い段階から自立していたのかなと思います。その自分の性格がガラリと変わったのがドイツ時代。向こうの人たちはオープンマインドで、物事をハッキリ言う習慣がある。むしろ自己主張しないと飲まれてしまうんです。

 例えば、自分がミスをしたのに僕が悪いように言われたりすることも多かった。そこで受け入れていたら、ずっと『あいつのミスだ』と言われかねない。そうなりたくなかったんで『自分は違う』『こういうふうにしたかった』と主張しなきゃいけないと思ったんです。それを繰り返すことで、彼らとの壁を乗り越え、深い絆が生まれた。自分の存在も確立できました。最初は言葉も喋れなかったので大変でしたけど、自分の意見を言うことの大切さを痛感する日々でしたね」と彼は異文化の中での基盤を固めていったのである。

凄まじい闘争心でHSVを鼓舞する日本人キャプテン・酒井高徳 【写真:アフロ】

異国でキャプテンの大役を担う難しさ

 HSV時代はキャプテンも任された。今でこそ、長谷部誠(フランクフルト)や遠藤航(リバプール)が所属先で(遠藤はシュツットガルト時代に)キャプテンマークを巻いていて、日本人が海外クラブでリーダーを任されることが珍しくなくなったが、2016年に酒井がHSV主将に就任した際には「異例中の異例」と評された。

 酒井の統率力によって16-17シーズンのHSVは1部残留に成功するが、翌17-18シーズンはクラブ史上初の2部降格が決定。その責任を一心に背負った彼は契約を延長し、1年での1部復帰を目指したが、翌シーズンもそれが叶わず、数々の批判を受けることになった。

「僕は新潟でもシュツットガルトでも残留争いをしたことがあったけど、降格したときは『なんで降格したのか……』と受け入れられない感情が強かったですね。それでも最終節終了時点では『やり切った』という気持ちを持てていた。悔いが残った状態で降格したわけじゃなかったし、2部を戦った年もそうでした。もちろん成績不振で自分に矛先が向くのも当たり前ですし、苦しい日々が続きましたけど、人間としてサッカー選手としてものすごく大きな経験値だったのは確かですね」と想像を絶する重圧の中で苦悩し続けた時間を彼は前向きに捉えている。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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