ネイサン・チェンが初めて明かす 金メダル獲得までの苦悩と栄光

挫折と失望を味わったネイサン・チェンの平昌五輪 立ち上がらせた「母の教え」と最後に手にした「希望」

ネイサン・チェン

2018年平昌五輪の個人FSを滑り終えたネイサン・チェン。その目に何が映ったか 【写真:ロイター/アフロ】

 ネイサン・チェンが初めて明かす 金メダル獲得までの苦悩と栄光――。

 北京五輪のフリーで5度の4回転ジャンプを決め金メダルを獲得したネイサン・チェン。その栄光の裏には、想像を絶する苦悩の日々、家族やチームとの絆があった。

 トップスケーターが舞台裏を語り尽くす貴重な回顧録『ネイサン・チェン自伝 ワンジャンプ』から、一部抜粋して公開します。

個人戦ショートも……

 個人戦ショートプログラムの日には、ほとんど星の導きに奇跡を願うような心境だった。練習で根をつめすぎてくたくただったし、おまけに試合前のウォームアップでかえって疲れが増していた。あのシーズンは、試合前に相当量のウォームアップをする習慣になっていた。滑走順の予定時間より約1時間半前にはリンクに来て、1時間のウォームアップ・ルーティンをこなす。そのせいで、スケート靴のひもを結んでもいないうちに、すでに疲労困こん憊ぱいだった。

 試合前のウォームアップ量は、バランスを取るのがむずかしい。なにもしなければ、もちろんよい滑りをするための心身の準備がじゅうぶんにはできない。けれど今振りかえると、あのシーズンのあらゆることがそうだったように、ぼくは明らかにやりすぎていた。ブランドンですら、ぼくのウォームアップはやや過剰だったかもしれないと、あとになって同意している。

 当時のブランドンも、ぼくとおなじで挑戦的なプログラムに向けた準備にはどの程度のストレングス&コンディショニングのエクササイズが最適か、試行錯誤をしながら探るしかなかった。さらにぼくのケガの状態も考慮に入れないといけない。つまりふたりとも、ぼくが望むレベルの戦いかたに必要な準備とウォームアップがどういうものかはまったくわかっていなかったのだ。ただ、痛めている股関節のためには、氷に乗る前にできるかぎり筋肉を動かしておくほうが氷上練習が楽になるだろうとしか考えていなかった。ところがぼくのウォームアップのルーティンは、必要とされる量をはるかに上回る過剰なものになっていた。

 個人戦ショートプログラムのリンクにおりたったとたん、数日前の団体戦ショートプログラムのときとまったくおなじ状態になり、おなじ感情に襲われた。「ああ、だめだ。こんなの無理に決まってる」。こんどは、ある意味もっとひどかった。数日前の記憶を振りはらえなかったからだ。

 ラフのアドバイスに反して、冒頭のジャンプは4回転フリップではなく4回転ルッツにすると決めていた。そのジャンプで転倒したとき、最初に思ったのは「もう一度プログラムを最初からやりなおしたい」だった。でも、もちろんそんなことはできるわけがない。この失敗をカバーするには残りふたつのジャンプで点数を最大限に稼がなくてはいけない。ぼくは頭のなかで複雑な組み合わせを必死に計算した。最初の転倒から立ちあがるのにかなり力を使ってしまったというのに、このあとプログラムを立てなおすためには、できるだけ高い得点を稼ぎながらも残りのジャンプで失敗しないよう力をセーブしておく必要がある。そんなことができるだろうかという考えが頭をよぎる。最後の最後になって、プログラム後半に跳ぶ4回転ジャンプは予定していたフリップではなく、よりかんたんなトウループにすることに決めた。でも、心の準備が追いつかなかった。不安で頭がいっぱいになり、恐れていたとおりのことが起こってしまった。3回のジャンプすべてで失敗してしまったのだ。またしても。

 4回転トウループではステップアウトし、トリプルアクセルも着氷でおなじミスをした。バランスを崩して氷に手をついてしまった。

 もし、ショートプログラムでひとつの構成に専念していたら─ラフが提案したほうであれぼくがやりたかったほうであれ─、そしてなにがあってもそのひとつをつらぬいていたとしたら、2回ともこんなに悲惨な結果にならずにすんだと思う。少なくとも実際に披露したものよりはずっとましな演技にまとめられたはずだ。代替案がありすぎたせいで、ありとあらゆるジャンプの組み合わせがつぎつぎと頭に浮かんできてしまった。シーズンを通して練習してきたことに集中すべきだったのに、判断ミスをする余地が生まれ、試合で失敗する方向に進んでしまったのだ。

「眠れないんだ。どうしたらいい?」

 リンクから出ても、ぼくはラフの顔も会場にいる誰の顔も見ることができなかった。そこにあるのは失望の色だけだとわかっていたからだ。もう何年もとったことがないような低い点数が出た。会場のまぶしいライトのなかから逃げだしたかった。

 メディアの取材には応じないで、すぐにでも会場を去りたかった。ミックスゾーンでは、ずらりと並んだリポーターたちが待ちかまえてあれこれ質問を浴びせてくる。実際には選手はそこを通らず外に出ることが許されていたのに、ぼくは知らなかった。だから取材を受けた。リポーターがみんなとてもやさしかったことをおぼえている。きっとぼくとおなじくらい彼らもショックを受けていて、たった今起こったことにどう対処すればいいかわからなかったのだろう。

「今どんなお気持ちで?」

「よい気分ではありません」

 ほかになにもいえなかった。

 全選手の演技が終わった時点で、ぼくは出場選手30人のうち、フリープログラムに進出を決めた24人中17位だった。取材を終えるやいなや試合会場を抜けだし、選手村の自分の部屋にもどった。ベッドに横たわってもうなにも考えたくはなかった。

 自分から電話をしたのか、かかってきたのかおぼえていないが、家族といっしょにアリーナを出て歩いている母と話をした。

「ひとつお願いがあるの、ネイサン」

 母がいった。

「なに?」

 ぼくは答えた。

「明日のフリーはノーミスで滑って。あなたならできる」

 ぼくも心の底からそうしたかった。でもそのときはとても約束できる心境ではなかった。それはいかにも母らしいはげましかただった。母の子育ての哲学は「最後まであきらめない」だ。ぼくたちきょうだいには、最高の結果を出すために勉強も運動も全力で取り組むことを求める。そしてうまくいかないときでも、結果がどうあれ最後までやりとおすことが大事だとはげます。

 何年も前、ノービス選手権の3週間前に膝をケガしたとき、それでも出場すると母がジェーニャにいったのもそういう理由からだった。たとえ最下位になったとしても、挑戦しなければ自分にはなにができるか知ることができないからと。母の短い頼みには、その哲学がすべてぎゅっと詰まっていた。フリープログラムをノーミスで滑ってほしいと頼むことで、まだ試合は終わっていないと伝えようとしていたのだ。

 けれどそのときは、今日の演技に関することはなにも考えたくなかった。それから18時間は、毛布にくるまってずっとベッドで寝ていた。試合は午前中におこなわれたため、まだ午後の早い時間だったが、窓のシェードを閉めきって食事も摂らなかった。ただ暗闇に横たわっていた。

 何時間かしてからシャワーだけは浴びて、眠ろうと思った。でも平昌に到着してからというもの、ぼくはうまく眠れずにいた。うとうとはするのだが熟睡できず、おかげでずっと体が休まった気がしないままだった。アメリカにいるときには毎日10時間近く睡眠を取るのに、ここ数日合わせても1日分にも足りないくらいだった。このときもやはりまったく寝つけず、ぼくはパニックになった。

 何度も何度も寝がえりをうち、とうとうアリスに電話した。

「眠れないんだ。どうしたらいい?」

 ぼくはアリスに泣きついた。

「タイレノールPMを飲んだほうがいいかな?」

 どうしても睡眠が必要になったときにそなえて、平昌には睡眠導入剤のタイレノールPMをもってきていた。以前も使ったことがあるのだが、つぎの朝は頭がぼんやりして反応が悪くなってしまった。翌朝早い時間にフリープログラムの公式練習が予定されていたので、ぼんやりした状態で氷に上がりたくはなかった。

 アリスは、いっしょに泊まっている家族みんなに相談した。その結果、1錠だけ飲めば眠ることもできるし翌朝少し早い時間でもちゃんと起きられるだろう、ということになった。それ以上ほかの話をする気分ではなく、家族もぼくの気持ちを感じとって尊重してくれた。タイレノールPMを1錠飲むことが決まると、ぼくはすぐに電話を切った。

 その夜は、韓国に来てから初めてぐっすりよく眠れた。翌朝目覚めたときには、疲れが取れすっきりしていて、フリープログラムに向けて気持ちも切りかわっていた。試合開始は午前10時。順位が下位だと練習時間も早いので、朝の公式練習でぼくは最初のグループに入っていた。

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