ネイサン・チェンが初めて明かす 金メダル獲得までの苦悩と栄光

挫折と失望を味わったネイサン・チェンの平昌五輪 立ち上がらせた「母の教え」と最後に手にした「希望」

ネイサン・チェン

個人戦フリーで巻きかえす

開き直って臨んだフリーでは会心の演技を披露した 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

 フリーの構成は、前にラフと話して4回転6本でいくと決めていた。でも心のどこかで、練習でもずっと不安定だったのに試合で挑む意味はあるだろうかと疑問にも思っていた。この大会では、2度のショートプログラムですでに考えられるかぎりのジャンプミスをしている。むしろそれなら、とぼくは考えた。あと2、3回ミスをしたところで、なにも変わらないじゃないか。その時点では、もはや結果を気にする気持ちはなくなっていた。

 失うものはなにもない。順位がさらに下がっても関係ない。メダルの望みも消えた。朝の練習リンクには、母とトニーが来ていた。話はしなかったが、母とアイコンタクトをして、少し気分がよくなった。なにがあろうと母はぼくの味方なのだ。トニーにもおおいに力をもらった。それから声援も。その時間は、リンクにほとんど人がいなかったので、トニーが「いけ、ネイサン!」と叫ぶ声も、ぼくがジャンプをおりるたびに「いいぞ、ネイサン!」と喜ぶ声もよく聞こえた。プレッシャーはすっかり消えさって、曲かけ練習ではクリーンにプログラムを滑りきることができた。

 ぼくの練習時間中、羽生結弦が自分の練習のためにリンクにやってきた。ぼくはまだ氷上にいて、結弦は着いた直後でウォームアップをはじめたところだった。ショートプログラムを終えた時点で、1位はもちろん結弦だった。2位のハビエル・フェルナンデスとの点差は4.1点。自分の感情を投影していただけかもしれないが、ぼくの目には、結弦はこの瞬間を自分自身のものとして、2度めのオリンピックを心から楽しみ、連覇へ進んでいるように見えた。

 それはけっしてかんたんなことではない。結弦にも、ディック・バトンが1948年と1952年大会で成しとげて以来の五輪連覇という大きなプレッシャーがあったのだ。そのとてつもない期待を背負いながらも、結弦からは不安も恐れも感じられなかった。とても冷静だったし、この場で戦えることへの感謝に満ちていた。そのときふと、自分はこの大会のあいだ一度もそんな気持ちになったことはないな、と思ったのをおぼえている。

 結弦とは会話をしなかったし、どんな気持ちかたずねることもしなかったし、すべてぼくの勝手な印象にすぎなかったのかもしれない。ぼくにとってのオリンピックはひたすら緊張の連続で失望だらけだったけれど、それでもこの日の練習のこの体験は、とりわけ心に残るできごとだった。

 フリープログラムに向かうぼくの心境は、ショートプログラムのときとは完全にちがっていた。もう結果は気にしない。オリンピックに出場するという機会を軽視しているわけではない。これは長いあいだの夢だったのだから。でも、今では目標が大きく変わった。家族にも短く伝えると、メールで返信が届いた。みんな、その感謝の気持ちをなにより大切にするようにといってきた。たとえここまで滑った2回のショートプログラムがひどい結果でも、まだ1回戦うチャンスが残されている。それは多くの選手たちにとっては望んでもかなわないことなのだと。

6本の4回転ジャンプを成功させ、気持ちは「次」へ

 順位が何位になってもかまわなかった。スピンやステップで最高のレベル4を取ってやろうという気持ちもなかったし、すべてのジャンプで転倒したっていいと思っていた。目標は、音楽がはじまったらプログラムに入って音楽がとまったらプログラムを終える、それだけだ。そのあいだのことは、なるようにしかならない。

 この考えかたはオリンピックへの敬意が足りないようにも見えるが、ぼくにとってはここまで重くのしかかっていた「金メダル以外は意味がない」という思考を打ち消すために必要なアプローチだった。ショートプログラムで17位ということは、あとは順位を上げるだけと考えることもできる。だったらこんどこそのびのびと、自分にできる最高の演技を披露することもかなうかもしれない。

 そして実際、そのとおりになった。6本の4回転ジャンプで一度もころばず、フリープログラムでは1位をとることができたのだ。

 母がぼくに望んだことを、やりとげた。

 フリープログラムでトップに立ったとはいえ、メダルを取るチャンスは実質ないも同然だった。ショートとフリーの合計点で勝敗が決まるのだが、ぼくのショートの点数はとても上位を狙えるものではなかったからだ。それでも、フリーを滑りおえたあと、ぼくの胸にはごく小さな希望の光がともった。心のなかで「フィギュアスケートではなにが起こるかわからない。もし上位7人の選手がほとんどのジャンプを失敗したら─もちろんそんな可能性はごくわずかだけど─表彰台に滑りこめるかもしれない」と考えていた。

 むずかしいとわかってはいても、ぼくは辛抱づよく残りの選手が順々にリンクに上がるのをじっと見ていた。けれども、最終グループの演技がはじまると、ひとり終わるごとにぼくの名
前は少しずつ順位表の下へと下がっていった。

 それでもぼくは、あのフリープログラムをやりとげたことに誇りを感じたし、すべての選手がオリンピックの瞬間を経験できたことをうれしく思っていた。

 ただ、ぼくにとってそのときにはオリンピックはすでに終わったことだった。

 1か月後に開催される世界選手権に向けて、気持ちは完全に切りかわっていた。

2/2ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント