“フロンターレを作った男” 庄子春男・元エグゼクティブアドバイザーが振り返る28年「『次こそは!』の積み重ねが初優勝に繋がった」

原田大輔

長年、強化に携わってきた庄子氏。攻撃的なスタイルを追求したチーム作りで、川崎のサッカーのベースを築き上げた 【提供:川崎フロンターレ】

 川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部がプロ化へと舵を切った1995年末から、28年もの間、庄子春男は主にチーム強化の責任者として携わってきた。2021年から務めてきたエグゼクティブアドバイザーを3月末に退任した今、改めて川崎フロンターレでの歩みについて聞く。2017年に初めてタイトルを獲得するまでの試行錯誤、チーム作りにおいて大切にしてきたモットーとは?

新卒の生え抜き育成の源流は中村憲剛

大学時代は無名の存在だった中村憲剛の成長とともに、チームも強豪への仲間入りを果たした 【(C)J.LEAGUE】

——3月末付で川崎フロンターレのエグゼクティブアドバイザーを退任されました。3月26日の湘南戦(YBCルヴァンカップ)ではファン・サポーターから感謝の言葉を掛けられていたのが印象的でした。

 試合後にファン・サポーターに感謝を伝え、同時に労ってもらえる場と時間を設けてもらえたことは本当にありがたかったですね。ファン・サポーターの姿を見ながら、改めて携わってきた28年を振り返えったときには、良いことよりも、苦労したことや悔しかったことが思い浮かびました。それだけファン・サポーターをはじめ、みんなには苦労をかけてきたんだなと……。

——苦労や後悔が思い浮かぶというのは、いかにもチームの強化に携わってきた人の言葉だと思います。

 悔しい思いがあったからこそ、「次こそは!」もしくは「今年こそは!」といった思いにつながったと思っています。その思いが、毎年の積み上げと積み重ねとなり、最終的には(明治安田生命J1リーグで初優勝した)2017年へとつながったように思います。

——その初タイトルを獲得するまでの道のりが長く、険しかったのではないでしょうか?

 2017年に初めてタイトルを獲得するまで、2位や準優勝に終わった経験が8回。ずっとシルバーコレクターと揶揄されてきましたからね。他クラブの強化担当者からは、「2位でもすごいことじゃないですか」と言われていましたが、自分からすれば、すでに2位や準優勝は経験していること。優勝する以外に、次の目標を達成することはできないという思いがずっとありました。

——フロンターレにとって存在感の大きかった選手について話を聞かせてください。やはり、その筆頭は中村憲剛さんでしょうか。

 憲剛がまだ中央大学の学生だったとき、初めて練習参加に来た日のことを今でも思い出します。練習の時間が近づいてきているのに、なかなか現れなくてね(笑)。みんなで心配して外を見ていたら、グラウンドの外の坂を駆け上がってきた姿を今でもよく覚えています。

——練習参加によって加入が決まった彼が、その後、チームの象徴となったことは、チーム強化の指針になったのではないでしょうか?

 フロンターレが今日まで成長してきた背景は、憲剛なしには語れません。彼がピッチ内外で、さまざまな取り組みをしてくれたことでチームに好影響を与えてくれました。チーム編成をしていくうえでも、その後、新卒の生え抜き選手を多く育ててきたということからも、その流れを作ってくれた存在だったと思っています。

約束通り戻ってきてくれた三笘薫

トップ昇格を断って筑波大に進学した三笘は約束通り川崎に加入すると、プロ1年目でベストイレブンに選ばれるほどの大活躍 【(C)J.LEAGUE】

——外国籍の選手で名前を挙げるとすれば、2003年から2011年まで在籍し、小林悠選手が抜くまで、クラブ歴代最多得点を誇っていたジュニーニョでしょうか。

 当初は、他の選手を見るためにブラジルへ視察に行ったのですが、その試合に出場していたパルメイラスの背番号8のプレーに引き込まれてね。それがジュニーニョでした。あれは、ひと目惚れに近い感覚でしたね。試合後、周りから評価を聞くと、いい選手だけど、年俸が高いぞって言われて。それでも諦められず、本人とも交渉して、帰国後にはクラブにもお願いをして。当時、監督をしていた石崎(信弘)は、こちらのあまりの熱の入れように、「庄子の恋人なんだろ。だったら任せるよ」なんて言われて。獲得までには幾つも障害がありましたが、幸運も重なりました。

——その後の活躍を考えると、そのひと目惚れも間違いではなかったのでは?

 私自身は、その選手の第一印象を大事にしてきました。第一印象がよければ、次の試合のパフォーマンスが悪かったとしても、簡単に印象が覆ることはない。チームには調子の良し悪しもありますからね。ただ、これは直感とは、また違う感覚なんです。だから、私としては、第一印象というものを大切にしてきました。

——日本代表やプレミアリーグの舞台で活躍している三笘薫選手(ブライトン)も、アカデミー出身の選手として印象に残っているのではないでしょうか?

 薫はユースを卒業するタイミングで、アカデミー、強化部のスタッフ、そして当時の監督だった(風間)八宏からも参考意見を聞きました。基本的には、すべての関係者がトップチームへ昇格させる方向で一致しました。そのなかで、本人だけが大学でサッカーを続けたいという考えを持っていて、トップチームへの昇格を打診したとき、すでに筑波大学への進学を考えていました。

 クラブとしては、強引に(トップチームに)昇格する方向へと話を導くこともできましたが、彼の人生を考え、また本人の意志を尊重する決断をしました。ただ、その場では口約束にしかすぎなかったですが、大学卒業後、再びうちが声を掛けたときには必ず来てほしいと伝えました。その気持ちを感じてくれたのか、約束通り戻ってきてくれたことはうれしかったですね。

——それまでアカデミーの選手で、トップチームへの昇格を断られたケースはあったのでしょうか?

 初めてのことでしたね。ただし、フロンターレとしては、このケースをできるだけ前例にはしてほしくないと思っています。大学に進学すれば、その後、フロンターレでプレーしなければならない義務はなくなってしまいますから。

——言い換えると、三笘選手はそれだけ戻ってきてほしいと思う選手だったと?

 薫は他の選手とはまた、ひと味も、ふた味も違いました。当時の監督だった八宏は、ユースの練習にも顔を出してくれていましたが、ユースの練習を見たとき、自分に「あの選手は、なんという名前ですか?」と尋ねてきたのが薫でした。自分もまた、ユースの練習を見たとき、薫の名前をスタッフに尋ねていたので、そのとき、同じ見方であり、同じ感覚だと確信しました。先ほどの第一印象の話ではないですが、優秀な選手というのは、それだけ誰が見ても一目瞭然だということですよね。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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