“フロンターレを作った男” 庄子春男・元エグゼクティブアドバイザーが振り返る28年「『次こそは!』の積み重ねが初優勝に繋がった」

原田大輔

「必ずチームはよくなっていくから今は耐えてくれ」

12年4月に就任した風間八宏監督。「止める・蹴る」の技術を植え付け、若手だけでなく、中村憲剛や大久保嘉人らベテランも育てた 【(C)J.LEAGUE】

——第一印象を大切にしていたという話もあったので、チーム作りにおいて大切にしてきたについても教えてください。

 サッカーはなかなかゴールが生まれないスポーツですよね。その一方で、見ている人たちは、ゴールが入らなければ盛り上がらないと思っていました。だから、クラブがプロ化へと舵を切ったときから、攻撃的なサッカー、点が取れるチームを目指してきました。J1に再昇格した2005年以降、先ほど名前を挙げたジュニーニョや憲剛、さらには我那覇和樹や鄭大世といった面々の力により、点は取れるようになりました。

 しかし、戦術的な部分に目を向けると、当時はまだまだカウンターが主体で、引いて守りを固める戦い方を選択してくる相手に対して、勝ち点を取りこぼしてしまう傾向がありました。そこで自分自身、クラブ創設当初に掲げた「攻撃的なサッカーとは何なのか」という壁にぶち当たったわけです。確かに得点は奪えるかもしれないけど、果たしてこれが攻撃的なサッカーと言えるものだろうか……と、自問自答しながら過ごしていました。

——そのなかで出会ったのが、2012年途中に監督に就任した風間八宏さんだったと?

 そうです。八宏が監督に就任した当初、そのサッカーが選手たちに浸透するまでには時間が掛かり、結果が伴わない時期もありました。当初は連敗することも多く、クラブの人たちがパートナー企業のもとに出向く、もしくはホームタウンの活動で地域に出て行くと、みんなから「フロンターレは大丈夫なのか?」という声を掛けられるとの話を聞いていました。そのときには、クラブのスタッフに「今は我慢してほしい。必ずチームはよくなっていくから今は耐えてくれ」と、話した記憶があります。

——強化責任者として必ずチームが上向いていくという、確信があったということでしょうか?

 自分の目には、結果は出ていなくとも内容がいいと思えていた。それに何より、見ていて面白く、楽しかったんですよね。

——面白いや楽しいというのは、安易な言葉に聞こえるかもしれませんが、実は大切なことのように思います。

 サッカーにはエンターテイメント性が必要だと思っていました。見に来てくれた人たちが、試合を見て楽しんで帰ってもらう。もちろん、プロである以上、試合に勝つことが一番大切です。そのうえで試合の勝ち方は、見に来てくれた人たちを引きつけるうえでは非常に重要なのではないかと考えてきました。多くの時間を相手陣内で進め、多くの時間でボールを保持し、それでいてゴールを取りまくる。チームを作り上げていく過程は大変でしたが、そのサッカーを信じて突き進んできたので、強化部としてもやり甲斐はありました。

——タイトルを獲ったことで、庄子さんのなかでつかんだ答えみたいなものはありますか?

 タイトルを獲ったことで変わったのは、チーム、さらにはクラブ自体から、タイトルへのプレッシャーを感じなくなったことでした。言い換えれば、タイトルを獲りたいではなく、続けていけばタイトルを獲れるだろうという意識の変化でした。あとは、急にできあがったものではなく、そこまで一歩ずつ積み上げてきたので、簡単に崩れるものではないという自信もありました。

地域との繋がりはスタイル以上になくしてはいけない

8度の2位や準優勝の経験を経て17年についに初タイトルを獲得。地道に蒔いてきた種が花開いた瞬間だった 【(C)J.LEAGUE】

——鬼木達監督が就任した2017年に初めてタイトルを獲りましたが、そこまでの過程にも意味があったと?

 もちろん、鬼木の貢献は途轍もなく大きいですが、クラブが創設したときから試行錯誤を繰り返して積み上げてきた結果でもありました。攻撃的サッカーを追い求めてきた結果、そのスタイルを確立できたことが大きかった。だからこそ、個人的に今思うのは、サッカーは時代とともに変化していくため、フロンターレも将来的には、今まで築き上げてきたスタイルが変わるときが来るかもしれません。

 それでも今はまだ、クラブとして、チームとして、このスタイルを継続してやっていくことが、さらなる積み重ねにつながっていくと思いますし、このスタイルを継承していけるような指導者、選手を選び続けていくことも重要になってくると思います。いつの時代も、攻撃的なサッカーを追い求め、見に来てくれた人がワクワクするようなサッカーを目指していく。フロンターレの原点は、そこにあると思ってきましたし、そうあり続けてほしいと思っています。

——ファン・サポーターから教わったこと、励まされたこともあったのでは?

 練習場でファン・サポーターから言われたひと言が励みになっていました。ファン・サポーターも含めて、耐えてくれた結果なんですよね。このクラブのファン・サポーターだったから、自分はやって来られたと思います。今日まで、チームを積み上げていくことができた背景には、かつてJリーグに移籍係数というローカルルールがあり、2009年にそれが撤廃されて、FIFAの基準のもとで行っていかなければならないことになりました。縛るといったら語弊があるかもしれませんが、チームとして選手を契約で縛ることが難しくなり、クラブとしては、契約条件とともに、チームの魅力や環境で勝負していかなければいけないと考えるようになりました。

 選手にとってのクラブの魅力とは何かを考え、クラブハウスや練習場、選手寮といった環境、もう一つはチームがやっているサッカーのスタイル。そこを築き、選手たちにフロンターレでやりたい、フロンターレで続けたいと思ってもらえる魅力を作らなければと思ってやってきました。その魅力の一つに、ファン・サポーターが作り上げてくれるスタジアムの雰囲気もありました。今では、フロンターレに加入する多くの若手選手が、このクラブでサッカーをしたいと思って加入してくれるようになったのは、本当にうれしいですよね。それこそ自分がやってきたことの成果を感じる瞬間でした。

 スタジアムも魅力の一つに挙げたように、地域というのは、川崎フロンターレにとって絶対であり、チームのスタイル以上になくしてはいけないもの。だから、最初にも言ったように、ファン・サポーターの顔を思い浮かべると、悔しかった思い出やうまくいかなかった出来事ばかりが思い起こされるんですよね。また、それがあったから積み上げることができたとも思っています。失敗を教訓にして、次への糧にしてきたから、今日のフロンターレはある。そして、28年間、クラブに携わってきたからこそ、改めて川崎フロンターレは、地域とともに歩んできたと言えます。

庄子春男(しょうじ・はるお)

1957年4月18日生まれ、宮城県仙台市出身。東北学院大を卒業後、1980年に富士通入社し、サッカー部で活躍。現役引退後は10年間のサラリーマン生活を経て、1995年末から川崎フロンターレに携わる。運営、広報、チケットなどの業務を行ったのち、強化部長、強化本部長を歴任し、2021年1月にエグゼクティブアドバイザーに就任。2023年3月31日で同職を退任した。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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