本多雄一が衝撃を受けたプロ一年目 次元が違いすぎた川﨑宗則
自分をアピールする
2005年の大学・社会人ドラフトで5巡指名された本多(上段右から2番目) 【写真は共同】
ちょうど、三菱自動車岡崎の竹原直隆さんがドラフトの注目選手だったため、当時ホークスの編成部長だった小川一夫さんと、同じくスカウトであった宮田善久さんが来ていたそうです。
当時、三菱重工名古屋の清水信也監督が、「本多、竹原の横で打ってこい」と僕に言いました。
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でも、運がいいことに調子がよく、タイミングが合っていて、ボールがほとんど芯に当たりました。しかも、左バッターの僕がレフトスタンドに放り込めたのです。
「ほおー、パンチ力あるな」
「逆方向に打てますね」
小川さんと宮田さんが、そんな会話をしたと後で聞きました。
その後は、折に触れ、僕の出場する試合を見てくれるようになったそうです。
そして、社会人3年目の2005年になります。
残念ながら、僕たちのチームは社会人野球における最高峰の大会である、都市対抗野球出場を逃してしまいます。二塁手としてチームに定着していただけに、僕も無念でした。
都市対抗というのは、出場できれば、会社の方がたくさん応援に来てくれて、そこでの一体感こそが、野球部の会社への恩返しだと思っていました。しかしそれができませんでした。
ただ、選手としては出場できました。実は都市対抗野球には、出場チームが同地区で出場できなかったチームから、選手をレンタルする「補強選手」というユニークな制度があるからです。
僕は東海地区で勝ち上がったホンダ鈴鹿の補強選手に選ばれました。こうして、都市対抗の舞台に立つことができ、しっかり活躍できたのです。
すると、この試合もホークスのスカウトが見に来てくれていたそうで
「本多は打ってから一塁までが速いな」
「今のホークスに必要な選手だろう」
そんな評価をしてくれました。
実際、僕の武器は走力で、当時50メートルを5・90秒ほどで走りました。そこだけは プロレベルで
「身体は小さい方だが、パンチ力もある」
そんな見方もしてもらえました。さらに、ホークスは九州に来て初優勝してから数年、チームは円熟期に入っており、スピードある選手を必要としていました。ホークスを含む3球団から、指名の打診がありましたが、ホークスは5位での指名で他球団はもう少し上位と聞いていました。
それでも、僕はホークスに行きたいと思った。僕をよく見てもらった縁があったし、何よりも故郷の福岡に帰れることがうれしかった。
がんばれば、両親に試合での姿を見てもらえる。それが恩返しになるから。
こうして、2005年秋のドラフト会議で、僕は福岡ソフトバンクホークスから、5位指名されます。
これが、僕のプロ野球人生のスタートでした